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日本移民と邦字紙の絆=日系メディア百年史(8)

「猟奇的小説の主人公」三浦鑿

「猟奇的小説の主人公」三浦鑿

 のちに日本新聞を始める翁長助成(おながすけなり)は、日伯新聞の主筆をやった時代がある。翁長と親交の深かった河合武夫は「モッカの場末のポロン(地下室)ではグーデンベルグが創始した頃のような手刷りの印刷機で双肌脱いだ元気の若い彼(翁長)が、気合諸共エイッと一枚ずつ刷る。十枚程刷り上げるとガラフォン(大瓶)のピンガ(火酒)を手酌で一杯ひっかけホット一息入れるといった頃の名主筆であった。(中略)
 日伯(新聞)にいた高野氏の表現によると、印刷所の天井から下がった電気コードは蠅の糞で太縄程にもなっていたというが、まさにコロニア神話時代の主筆記者であったわけ」と書いている。
 2紙目の邦字紙は、同胞社会から好感を持って迎えられた。
 「週刊南米に於ける星名の筆は非常に鋭く、且(かつ)一種の毒さへあつたので、領事館筋や移民会社の人々に人気がなかつたと云うより寧(むし)ろ恐れられて居た。日伯新聞の方は何にせよ若い手合の事であり、それに金子は通訳あがりで地方にも知人が多かつたから自然『週刊南米』に比し評判はよかった」
 ところが、輪湖はわずか半年で日伯新聞を離れる。二人の関係が悪化し、その代わりに入ったのが、鈴木貞次郎だった。社説でどんどん移民問題を取り上げ、在伯日本人十大人物の人気投票をするなどして人気を集めたが、鹿野久市郎を後釜にすえて間もなく辞めていった。後にサンジョアキン街68番に移り、さらにリベルダーデ街144番に引っ越す。
 1917年に創刊した『ブラジル時報』は最初から活字印刷であり、石版刷りの日伯は見栄えが劣ったせいもあり、次第に押され始めた。「何とか挽回しようと焦燥し、翌大正七年(一九一八年)活字購入及資金調達の為金子は帰国することとなった」。
 その間、鹿野が支えた。金子は活字を持って帰ったが病に倒れ、1919年9月26日に、金子は三浦鑿(さく)(当時37歳、本名=鑿(さく)造)に日伯新聞を売却した。
 この際、三浦の経済的支援をしたのが、コンキスタで日伯産業組合を立ち上げた石橋恒司郎といわれる。これは米作最盛期に日本移民が組織した最初の産業組合で、コチア産業組合創立の8年前だった。
 移民の草分け、鈴木貞次郎は三浦を「猟奇的小説の主人公」と評し、その生涯は星名以上に謎につつまれている。その生涯の概略をしるせば、郁文館卒業。新潟県高田中学柏崎分校(現・柏崎高校)で英語教師をしていたが、学校に軍事教練が盛り込まれるのを嫌い、教師を辞して放浪生活を始める。
 アホードリの密漁船で南海の孤島で置き去りにされて餓死寸前のところを、1908年に訪日したブラジル海軍練習艦「ベンジャミン・コンスタン号」に救助され、水兵に柔道を教えながら翌09年にリオに到着したという「伝説」もある。(敬称略、つづく、深沢正雪記者)