海軍兵学校の武術教師をしていた三浦は、公開格闘技の試合でカポエイラの使い手と戦い、瞬時に足技「エイの尻尾」でうたれ、目覚めたら病院だったという。即、教職を辞し、浪人生活に入る。チジュカ沖の英国の難破船の積み荷引き上げに関わって儲けたなど、リオで「海賊的行為を働いていた」との半ば伝説的な話が移民間に伝聞で伝わり、謎の多い浪人時代を送った。
徹底した反官気分が強く、反権力をうたっていたので、熱狂的なファンが多かった。だがそれがあだとなり、『ブラジル時報』や在外公館などの勢力とぶつかり、3回も国外追放運動(第1次は1924~1926年、第2次は1929~1931年、第3次は1939年~)を起こされ、実際に2回もブラジル追放令まで出された。
1931年3月の時はまもなく解除されたが、1939年7月の時には日本まで戻り、今度は東京で特高に反戦思想の喧伝の疑いで厳しい尋問を受け、戦後まもなく栄養失調で〝客死〟するという劇的な生涯を送った。この間の、公的権力を批判したために国外追放に処されたという経緯が、戦後に至るまで伯国政府批判できない邦字紙の風潮を形成する一因となった。
三浦の特徴ある性格を示す実話がある。妻となる朝江と知り合ったのは日伯新聞を買収した頃だった。「十八~九歳の頃、夜の女をしていて三浦がその客となった。しばらく通ううちに三浦は朝江を引き取って妻とした。戸籍上の入籍は一九三五(昭和10)年訪日時に果たしたが、三浦は朝江を引き取って以来一貫して正式の妻として遇し、皆にそのように紹介した。(中略)古い移民には朝江の過去を知るものも多く、なかにはその客になったことがあるものもあった。三浦はそのようなことには我関せずという態度で少しも悪びれず、妻をますます手厚く、優しく扱った」という。
一緒になってしばらくして生まれた子は「誰の目にも日本人に見えなかった。引き取られる以前に朝江は『外人』の客の子を妊娠していたものらしい。(中略)『誰の子か』『おれの子か』といったことについて三浦は生涯一言も触れず、妻にも何も言わなかった。民雄と名付け、自分の子として役所に届けた。あくまでも自分の実子として扱い、それ以外のそぶりは人にも微塵も見せなかった。温かく、懸命に慈しんで育てた」 。
『四十年史』の中で安藤潔は、日伯新聞とその社主・三浦を評して「一九一九年に三浦が買い取って経営するようになってから彼の野人的な反官気分が遺憾なく紙面にあふれ、当時、移民会社に王侯の如く君臨していた移民輸入業の海外興業会社や総領事館に対して常に辛辣な皮肉と攻撃を加えて移民の味方をもって任じていた。
三浦の思想はコスモポリタン的というよりは、はるかに自由主義的であった。必ずしも厳密な意味でのリベラリストとはいえなかったが、当時の邦人社会中では彼は進歩的な批判力をもっていた」(302頁)と論評する。
三浦の生涯は、前山隆著『風狂の記者・ブラジルの新聞人三浦鑿の生涯』(お茶の水書房、2002年)に詳しい。(敬称略、つづく、深沢正雪記者)
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