主幹・黒石、編集・輪湖、さらに豊富な資金と活字で、予定通り既存紙を圧倒した。
「既存の二新聞を見下ろしながら、新活字で当初から千五百部も印刷して、購読料など念頭に置かず、経営を続けて行った。他の両新聞が如何に挑戦しても、謄写版や石版では先ず其の武器に於いて敵すべくもなかったので、『時報』の勢力は漸次二社を圧倒して行った。その中には星野は『週刊南米』を廃刊して、専ら植民地開設に転じ、金子独り孤軍奮闘したが、これ亦(また)病を得るに居たり、天下は正に、『時報』の独壇に委ねられたかに見えたが、三浦が『日伯』を買収してから風向きが変わってきた」という流れだった。
移民会社機関誌として出発し、1920年に当時の所有者であった海外興業株式会社から会計を分離し、1922年4月には同社から一切の譲渡を受けて、完全に黒石個人の経営となった。
『ブラジル時報』に関して、『四十年史』は「紙面は官僚的で、くさいものにはふた主義であり、耕地における移民の不平をおさえるために、極力封建思想、殊に道徳的説教を好んで論説にして、移民社会を骨ぬきにすることに力を注いだ。黒石の思想は終始一貫封建道徳の鼓吹で、『日伯新聞』の三浦とは全然入れず、ことごとに見解を異にして激しく論争し、邦人言論界に絶えず問題を提供した」(302頁)と述べている。
④『聖州新報』
1921(大正10)年1月20日、ノロエステ線の入り口バウルー市に日本領事館が開設され、副領事として多羅間鉄輔が着任した。激増するノロエステ地方の日本移民の声をより身近な位置から反映させるべく、ブラジル独立記念日の1921年9月7日をもってバウルー市に第1回移民の香山六郎が発行人となって創設したのが『聖州新報』(Semanário de São Paulo)だった。
サンパウロ市に所在する『日伯』『時報』の2新聞は市内の都会記事が多く地方ネタが少なかったし、ノロエステまで届くには1週間から10日間もかかった。『聖州新報』がバウルーに拠点を置いたのは、新興のノロエステ線やパウリスタ線延長沿線と、大都会サンパウロ市をつなぐ乗換え駅で、交通の要衝地だったからだった。
日本人経営の沢尾ホテルには沿線一帯の植民地の情報が集りやすく、総領事館も開設されていた。聖市の2紙に次のような不満を持っていた香山は、新興するノロエステ勢力を代弁する必要性を感じていた。
三浦の新聞は移民新聞ではなく浪人新聞であった。官憲人にも海興にも筆を売らん哉の姿勢で移民階級はさげすまれた。(敬称略、つづく、深沢正雪記者)