⑤娯楽を求める心理、団体組織化
1922年にはブラジル独立百周年記念日を祝福して日本帝国海軍の練習艦が初訪問し、サントス港に海国日本の偉容を示した。長い間日本に触れたことなかった移民の中には、隊員たちの腕にしがみついて感涙するものがあったという。
翌1923年にはこれまでの公使に代わって初めて大使館が設置され、初代田付七太大使が派遣されるなど、日本国の勢威をブラジル人に示すようなことが相次ぎ、在留邦人は自信を深めた。
1920年代前半には黎明期の植民地造成も一段落し、ただ牛馬のごとく働いてきた初期移民たちはようやく一息ついた状態になり、味気ない開拓生活の中で楽しみを求める気持ちが強くなった。サンパウロ州の植民地で日本人地主や借地自営農が増え、経済基盤がようやく固まり、文学活動が徐々に盛んになってきた時期でもある。
経済基盤が整って、文化を語る精神的な余裕が出来た時代となった。初期の植民地では同好者による短歌や小説などの集いがもたれるなどの文芸活動の萌芽が見られ、まずは植民地の青年会の会報に発表して腕試しをし、次に邦字紙に発表するという形でステップアップしていった。
ブラジル事情と移民社会の状況の一括紹介を目的に、1922年9月にブラジル時報社が『新進之伯剌西爾』、聖州新報社が『北西年鑑』(1924年3月)、『のろえすて年鑑』(1927年)、『ノロエステ、ソロカバナ、パウリスタ線邦人年鑑』(1930年)などの年鑑モノがこの時代に始まった。前半に特集記事、後半に各地の商店や農家の広告を載せる年鑑の形式が一般的になった。
一方で、地方から聖市に転住してくる移民も増え、1925年に唯一の親睦団体、当時のコロニアの上流階級ともいえる「サンパウロ日本人倶楽部」が生まれた。そのような聖市の環境において、移民の子弟教育を目的にした雑誌として、小林美登利が設立した聖州義塾が1924年1月から雑誌『市民』を、1927年6月から『塾友』を発行し、この種の教養雑誌の嚆矢となった。
(2)戦前の邦字紙全盛期(1926~1936年)
①ノロエステ地方に激増した読者層
日本では昭和恐慌(1930~1934年)が、国民の生活を直撃し、都市部はもちろん農村部においても不況と凶作が重なり移民送出圧力をたかめていた。ところが最大の移民受け入れ国だった米国では、別名「排日移民法」とよばれる1924年移民法が作られた。
これは、1890年の国勢調査の時の外国移民の人口を出生国別に分けて、各人口の2%に相当する人数をその国からの年間移民許可数に設定したもので、法律の条文には直接に日本移民の禁止とは書いていないが、「帰化不能外人の入国を禁じる」との条項があり、「米国市民になることのできない外国人」とは即ち、アジア系移民を意味した。(敬称略、つづく、深沢正雪記者)