市場占有率75%の快挙
『サクラ(Sakura)』ブランドの醤油は、中産階級の60%以上が食卓必需品と認める。そんなブラジルを代表する食品会社を親子2代で育てたのが日系二世の中矢レナト健二だ。現在75歳。40歳で社長に就任し、以来、ブラジル醤油業界近代化のリーダーとして、先頭に立って市場創出と発展に励んでいる。来月10月にサクラ中矢食品(本社・サンパウロ)は創業80周年記念を迎える。米国に次ぐ累計で440万人以上(9月17日現在)のコロナ感染者を出している経済最悪期のブラジルで、サクラはコロナ以前の業績及び醤油生産と販売量を維持しており、その経営力が改めて評価されている。
こうした市場環境の中で市場占有率75%を占めるのがサクラ中矢食品だ。社長の中矢レナト健二は、二世ながら父・末吉の跡を継ぎ、創業型社長として業界のトップメーカーに同社を躍進させた。
さらに輸出でも三十数カ国と取引しており、同時にキッコーマンが強い北欧(例えばスウェーデン) 地域でも市場拡大が続いている。
いまでは農機具メーカーのジャクト農機と並ぶブラジル日系社会を代表する世界企業として知られている。ブランドのサクラがイコール醤油といわれるほどブラジル国民に浸透しており、醤油文化を通して日本の食文化をブラジル国民に定着させた功績は極めて大きい。
日本からの移民の歴史は112年になるが、日本の伝統的な調味料である醤油文化を、80年かけてブラジルに定着させたサクラ中矢食品と中矢の取材を通して、ブラジルで多文化共生社会を生きる新しい日本人像が誕生していることを伝えたい。
中産階級の60%が台所に醤油を
大豆ととうもろこしという100%ブラジル国産の原料から作られたサクラ醤油は、大豆と小麦を原料とした日本の醤油と大きな違いがある。ブラジル産醤油は、とうもろこしの甘みとまろやかさが特徴だ。これに比べると日本産醤油は塩味が強い。
ブラジルでは南欧系のイタリアとポルトガル系の移民が人口の約70%を占めており、サクラ醤油の味覚はこの南欧系の調味料文化との適合性をもっている。サラダ、焼きそば、肉料理、魚料理、パスタ料理、さらにシュラスコ料理などにもよくなじむ。ブラジルの国民的な調味料になっている。だから、ミドル層以上の60%の家庭の台所にサクラ醤油が入っているといわれる。
1930年代、日本移民による醤油文化の萌芽期に、小麦がなくとうもろこしという代用品を使ったことが結果的にブラジル国民に受け入れられた。
中矢が日本への醤油留学を通して得た結論も「ブラジルにはブラジルの醤油があってよい」だった。ここは中矢の先見性と慧眼にただうなずくしかあるまい。移民の国ブラジルでサクラは80年かけて、醤油文化をブラジル全土で市場化させたリーダーとしての功績は絶大なものがある。
米国と並ぶ世界的な移民大国ブラジルの歴史は、独立後わずか198年しか経っていない。2年後の2022年には独立200年を迎える。まだ青年期のような若々しい国だ。
日本からの移民は今年で112年になる。ブラジルの醤油誕生は1930年前後でサンパウロから500km離れた南西部のプレジデンテ・プルデンテから始まったといわれ、その歴史は100年に満たない。
1990年頃まではどこの日本料理店に行ってもテーブルの上には必ずと言ってよいほど3、4社の醤油瓶が置かれていた。乱立する醤油業界の中でいち早く醤油近代化に着手したのが「サクラブランド」を販売するサクラ中矢食品だった。
中興の祖、改革担ったレナト現社長
しかもその改革のリーダーは創業者・中矢末吉の次男でブラジル生まれの現社長であるレナト健二だった。6歳になった頃から家業の手伝いをしており、醤油業界の申し子的な存在だった。大学も醤油の品質向上に繋がる化学部発酵科を専攻し卒業している。
71年の入社前から醤油をブラジル人に広く利用してもらうことを考えていたが、その目的の一つは日系人が経営する醤油市場で勝ち残り市場の覇者になることだった。
その理由と実態は古い因習にとらわれた量り売り中心で、家族経営による商店商売だった。中矢は20代の後半から40代にかけて、日本の最先端技術を持つ醤油製造法や品質向上策、さらに販売方法やマーケティング、組織経営などを学ぶために、日本に頻繁に醤油留学をしている 。
1985年に父の急逝に伴い40歳で社長に就任した中矢は、いままで温存していた醤油改革計画を次々と実行していった。瓶からプラスチックボトルに、家庭向けに3タイプ(500ml、300ml、150ml)の小サイズに。
さらに商品ラベルの工夫、近代的な機械化による生産態勢と量産化、近代的な配送システムの構築、ブラジル全土をカバーする営業販売態勢のシステムとネットワーク、社員の人材育成、ち密なストラテジー方針に沿ったマーケティングの構築、会社経営の組織化、合併による業界の集約化など、醤油業界で誰も手がけていなかった未開の領域を業界の先頭に立って改革してきた。
同時に日本への醤油留学で辿りついた結論が、原材料を大豆とトウモロコシにする『ブラジルにはブラジルの醤油があってよい』だった。この確信のもとに醤油改革と近代化、そして業界の集約化に邁進した。
同時にブラジル人には馴染みのなかった醤油市場を創出するために、長年にわたり醤油キャンペーンを定期的にサンパウロ中心にブラジル各地で行った。
圧倒的な市場占有率75%
キッコーマン社員でブラジル駐在経験もある元OB社員は「サクラはブラジル人の嗜好と市場を熟知している。世界同一品質基準の我々には手が出ない領域だ」と当時、白旗を掲げて日本に帰国したほどサクラの存在は大きかった。
そしていま、醤油最大の消費国である中国の業者がブラジルに本格的に参入している。「中国産の醤油も最近では徐々に品質が向上し低価格で勝負している。特にレストランや食堂など業務用にそれが言える」と業界関係者は語っている。
ブラジル醤油市場の75%(ニールセン調査)を占めるサクラ醤油。特に家庭用分野ではひときわブランド力が輝きを増す。ブラジル中の最高級ホテルや一流レストランでは、必ずといっていいほど、サクラブランドの最高品質を誇る『サクラPremium』が使われている。ブラジル人の味覚に適合した製品品質力と営業力の凄さが市場を通してよくわかる。
さらにサクラ醤油が一般消費者から信頼されている理由の一つに「安全・安心・清潔・品質」に支えられた商品づくりがある。広告でも使用されている
「醤油原料が100%天然の大豆とトウモロコシの特殊発酵技術の蓄積、遺伝子組換え農産物の不使用、癌の原因にもなるグルテンの不使用」と、安全の確かさがサクラに対する信用力を増しており、国内でもヨーロッパ市場でもその評価と信頼は極めて高い。
経営資源の一極集中化で抜け出す
戦後の日伯関係は、日本からの移民とともに、1960年代から始まった日本の官民によるブラジルへの投資ブームだった。それが70年代後半まで続き、これに伴いこの15年間の間にサンパウロやリオを中心に日本料理店が次々と開店していった。
和食イコール醤油は日本の食文化の原点である。1970年代半ばころから日系人や日本人に対する差別的な見方が消失し、イコールパートナーとしてブラジル人の間に急速に和食の浸透とともに醤油が普及していった。
中矢は自分の体験をこう語る。「公私ともに転機と思ったのは1974年に結婚した時だ。それまでは私を含めて日系人はブラジルで目に見えない差別を受けて苦労してきた。この頃を転機にしてブラジル人の日本や日系人に対する評価が大きく変わってきた」、同時に「寿司や刺身などが美容と健康に良いということで日本食文化がブラジルで開花していく時代に入った」と醤油業界にも追い風が吹き始めた時期でもあった。
中矢はこのタイミングを自社のマーケティングに取り入れて、ストラテジー経営(経営資源の一極集中化)を積極的に加速させていった。どんぐりの背比べ状態だったブラジルの醤油業界から一気に抜け出したのがサクラ醤油だった。
同業の、日の本、東山(とうざん)などはサクラのマーケティング力と営業力についていけなかった。こうした格差が出たのは中矢が社長に就任した1985年が節目だった。10年後の1995年頃になるとブラジル国内の市場占有率は90%を超えていた。
経営者・中矢レナト健二との一問一答
中矢社長らしさは日常どのような所で分かるかー「私はわが社のどこに行っても常に周りにいる誰とでも会い挨拶したいと思っている」「人は気持ちが大事!」「みなさんの顔を知ることだ」。
サクラ中矢食品は今年10月に創業80周年を迎える。その感想を聞きたいー「社長として私は、消費者、ユーザー、および関係者に対して、サクラ中矢食品の誠実な食品生産が社会的な価値と使命を果たし、世の中に貢献するだけでなく、(醤油など調味料の生産を通して)ブラジルと世界の食生活の向上と進歩に貢献してきた。この80年かけて築いてきた遺産と信頼を、今後さらに高めていきたい」。
100年企業に向けてこれから20年の超長期ビジョンを聞きたいー「起業家精神は、(将来も継続する)環境問題を解決し、同時にスピードと変化対応のデジタル世界も視野に、健康的な有機食品を生産していくことをはっきりさせている」
業界のリーダーとして頑張っている中矢社長の強さを聞きたいー「今後、先例の無い様々な困難が出てくると思う。我々は神を信頼している! ブラジルは恵みの豊かな国であり更に大西洋が助けてくれる」
家族と少年時代
父・中矢末吉のブラジル移住年は1932年で、2年後にはブラジル中矢家移住90周年を迎える。ブラジル中矢家と愛媛県松山市の中矢家本家とは88年たった今でも親族として親密な交流が続いている。長い年月を超えて一族が結ばれているシンボル的な存在だ。
生年月日=1944年生まれ
妻の名前=マリーザ、1974年に結婚
夫人の内助の功について=毎日がありがとうと感謝の日々
長女=ミワ・プリシラ
長男=エンリ・ヒサシ(サクラ中矢食品の最高財務責任者)
次男=ジュン・レジス(リハビリの医者だが和牛農場の経営者)
次女=エミ・メリン
孫の人数―4人
親の手伝いを始めたのは何歳の時からー6歳から手伝っていた。大豆とトウモロコシの選別作業から始めた。当時は家の近所の子供たちは皆小さい時から親の手伝いをしていた。小さい時に親から教えられたことは、父(末吉)―親の背中を見て育った(父は醤油製造の経験がなくもともとは素人だった)。日本を出た時は大原流生け花の先生だった母(千代子)は、愛媛県で看護婦をしていた。
100年企業への道
日系人移住の歴史は112年を迎えた。この日系人が創業した会社は、日本の伝統的な食品調味料である醤油を80年かけてブラジル人の国民的な調味料に浸透させた。その功績は絶大なものがある。日伯相互理解と文化交流の極めつけの話でもある。
サクラ中矢食品が80年にわたり、波乱と激動のブラジルの歴史を勝ち抜いてきたことは、ブラジルの会社興亡史から言っても大いに賞賛すべきことだろう。
こうした意味でも日系人社会が生んだ名門企業といってよい。ブラジル醤油業界近代化のパイオニアであり、いまでも変革の旗手であり続けている。同時にブラジルで生産した自社の醤油を、中南米各地はもちろん北米、ヨーロッパ、日本、アジア、中近東、アフリカなど、地球規模で世界30数ヵ国に輸出している。
サクラ中矢食品にとっては、いままでの80年と100年企業を目指すこれからの20年間は会社勝ち残りの試金石になりそうだ。中国系やキッコーマンの新たな市場参入で競争が一層激しさを増し、同時に経営面でも世界的なIT時代によるスピードと変化の速さが一段と加速する。
『サクラブランド』にとって、21世紀は『環境の時代』といわれるように、地球環境への配慮と優しさを会社としてどう取り組んでいくか、新たな経営課題も生まれている。 (文責 カンノエージェンシー代表 菅野英明)
画期的新商品『OURO』
サクラのイメージが一変する画期的な新商品で、醤油としての透明性が極めて高い『金』(オーロ)を4月から発売している。全てブラジル産の原材料で醤油を製品化独自のR&D(研究開発)で100%天然の大豆とトウモロコシの特殊発酵技術の蓄積、遺伝子組換え農産物の不使用、癌の原因にもなるグルテンの不使用」と安全の確かさがサクラに対する信用力に繋がっている。国内でもヨーロッパ市場でもその評価と信頼は極めて高い
中矢の経営者としての凄さ
ここまで同社を発展させたのが2代目創業型経営者で二世の中矢レナト健二だ。2代目が創業者である父の中矢末吉を凌いで会社を成長させ事業規模を拡大させた。その凄さの片鱗は次の事実から伺われる。
★84年に40歳で社長就任以来、絶えず価値造成型の積極経営を貫いていること
★経営に欠かせない探求心と事業家イズムは人一倍旺盛
★私心が全くないこと、物事を公平に見れること
★人間性重視の経営、全てにわたって世界基準で物事を見て決断する経営を行っていること
★これらを社長就任時から現在に至るまで36年間にわたり一貫して継続していること。
際立つマーケティングパワー
従来型の考え方や販売方法を抜本的に改革し醤油業界近代化を達成したパイオニアといわれるのが中矢なのだ。尊父の急死により1984年40歳で2代目社長に就任。
サクラは1940年の創業以来80年の歴史を誇るジャクト農機と並ぶ日系社会の名門会社だ。
80年たったいまでも、絶えざる改革と改良、そして最新技術の導入と新商品の提供でお客様満足度の高い価値創造型のブランド力を守り貫いている。
常に最新の経営テクノロジー、最新のマーケティング、最新の生産技術、優れた人材の確保などを通して時代を先取りした経営を展開している。
中でも驚くのは、10年以上前からサクラは、会社としての15年先・20年先の会社のあるべき像を描いた超長期ビジョン計画を持ってきたことだ。