1934年から1940年にかけて、ブラジル中央日本人会(1937年)、日伯産業組合中央会、日伯農業協会などが、1935年には画家による聖美会、在ブラジル日本人同仁会(1929年連邦政府認可)の医師らによる日本病院建設計画も進められ、1940年には日本商業会議所が設立された。つまり、かつてない集団としての連帯意識をもつ時代になった。
在伯同胞社会に生まれた組織化の動きを縦糸だとすれば、情報面から連帯化させる横糸の役割を果したのが邦字紙だった。これらが両輪の働きをして、同胞社会の思想動向を左右していった。
サンパウロ市で幅を利かせていた『日伯新聞』『ブラジル時報』に加え、1923年に坂井田善吉 によって創刊された月刊『南米評論』は1928年から週刊邦字紙『南米新報』となり、1932年創刊の『日本新聞』に受け継がれていく。日本移民が激増するノロエステ線沿線には、地域密着型の『ノロエステ民報』『アリアンサ時報』が相次いで生まれ、それに押し出されるようにして『聖州新報』は聖市進出を図る流れになっていった。
コロニア文芸と邦字紙
1924年11月に建設が開始されたノロエステ線のアリアンサ移住地は日本で土地を購入して入植する形だったために、インテリかつ資産家が多く、別名〝銀ブラ移住地〟(銀座をブラリという気分で入植)といわれ、特殊な移住地の雰囲気を醸し出していた。
1926年に渡伯して同地に入植した木村貫一郎 は、東大工学科卒で、技師として三重、山梨、台湾などを回り、官吏を辞めたあと、新潟水力電気株式会社に就職し、それを辞めての渡伯だった。
技師として1933年にチエテ河のノーボ・オリゾンテ橋の設計と工事監督を務めたほか、ホトトギス派の俳人としても知られ、同じアリアンサにいた俳人の佐藤念腹、岩波菊治らと交歓し、1929年から日伯新聞の俳壇の選者になり、没年まで務めて俳句振興に身を捧げた。
木村貫一郎は1936年に出聖し、翌1937年に各派合同の俳誌『南十字星』が創刊される。このように、このアリアンサ出身のメンバーが出聖して、コロニアの文芸界を形成することになる。
この頃に戦後の邦字紙界を担う世代が渡伯している。後に日伯毎日新聞(以後、日毎紙と略)を創業する中林敏彦は1933年3月ごろ、サンパウロ新聞(以後、サ紙と略)の水本光任は1929年6月、サ紙の編集長・主幹を務めた内山勝男 や同社総務局長を努めた藤井卓治は1930年に渡伯している。少し早いのはパウリスタ新聞(以後、パ紙と略)社長となる蛭田徳弥で1923年だ。(※いったん別連載をはさんで後に継続、敬称略、深沢正雪記者)