《補講》 幕末 ・ 明治初期に日本を訪れた外国人の見た日本と日本人
■ペリー提督の日本人観(1853年に日本にきたアメリカの提督の日本遠征記より抜粋)
日本国民は、男女を問わず、読み書きが出来る。見聞を広めどんなことにも興味をしめす。他国の地理や物質の発達に関心を示す。日本人は一生懸命働く。余暇には将棋や碁を楽しんでいる。若い日本人の娘は姿がよくきれいである。日本人は品位が高いなど記されている。
■ジョン ・ ブラック(英字新聞発行者)
マナーの良さとモラルの高さに感銘を受けた。日本人の礼儀正しさ、日本人は柔和で、かなりの独立心を持ち、気持ちのよい挨拶をする。
■アンベール(スイス人遣日使節団長)
下層の人でも親切で愛想が良い、庭に咲いている花を私が気にいったと言うと、一番美しい所を切り取って私にくれた。そしてお金を渡そうとしても受けとらなかった。
■イザベラ・バード(1878 年 イギリスの旅行作家)
雇った馬子の親切さ-皮ひもを亡くしたら、4kmも戻って探してくれた。旅の終わりに少しお金をあげようとしたが、私の責任は貴方を無事目的地に届けることと言って、お金を受け取らなかった。
■エドワード・モース(東大教授)
人力車の車夫の行儀の良いこと。車夫同士でお客の取り合いをしない。ぶつかっても微笑みを返し争わない。汚い言葉を使わず、目的地にまっすぐ走った。
■ヴィレム・カッテンディーケ(海軍教官)
日本人の欲望は単純で、上流社会の食事といえど簡素、貧乏人らと変わらない。家の中も簡素単純で、日本人の礼儀正しさ、無償の親切、争いのない社会。
第3 節 立憲国家と日清・日露戦争
条約改正への苦闘
幕末に徳川幕府は、諸外国と修好通商条約を結んだ。1858 年当時、日本は 西欧諸国並みの法律を持っておらず、不平等な条約であった。不平等の第1は、日本で罪を犯した外国人を裁判で裁けず、外国の領事が裁判権を持っていた。
第2は関税の自主権を持っていなかった。明治政府は、そのためこれらの改正を進め、外国と同等の権利を有する国になるため、涙ぐましい努力を続けた。1871年に明治政府は岩倉使節団を欧米視察に送り出したが、その一大目的は不平等条約の改正にあった。憲法がないと、独立国として認めてもらえぬため、維新後 23年目に明治憲法をつくった。
日清戦争が始まる前の1894年に、明治政府は、英国と日英通商航海条約を結び、外国人に対して国内を開放し、自由な活動と、住居 ・ 旅行などを認めることと引き換えに、治外法権が撤廃された。その翌年、領事裁判権を廃止させることが出来た。
1911 年には関税の自主権を回復させたが、条約を結んでから実に58年、岩倉使節団が欧米と交渉を始めてからでも40年の年月が経っていた。明治時代が終わる直前まで明治の元勲たちは、日本国を真の独立国家にするために尽くした。
日本も欧米並みの文明国であることを示すため、鹿鳴館を建設し、舞踏会を催し、フランス料理でもてなした。日本の昔の葬儀は白服であったが、黒服を使うようになったのは、西洋文化に合わせたからと言われている。
日本は国を挙げての西洋化を進めた。日本がアジア以外の国と最初に結んだ通商条約は、1888 年に行ったメキシが最初である。1896年にはブラジルとの間に通商条約を結んだ。ブラジルへの移民が始まる12年前のことだった。
自由民権運動と政党の誕生
1868年、天皇は明治の御世を始めるにあたって、天皇自らが神に誓うという形で、「五箇条の御誓文」をつくられた。御誓文では、会議を開き、世論に
基づいて政治を行うことを国の根本方針として宣言した。
1874 年には板垣退助(1837-1919)は民撰議院設立の建白書を政府に提出した。その中で国民が政治に参加出来る国会の開設を求めた。なぜなら上に天皇あり、下に人民あり、中に居る有司(役人)が多くの法令を出し、絶えず変更する。これでは民意が反映されず、一貫した政策が見出せず、国が崩壊するもとであると主張した。
征韓論論争で政府を去った板垣は、薩長出身の藩閥政治を批判し、議会の開設を急ぎ、国民の自由な政治参加を勧めた。こうして自由民権運動は始まった。
1877 年、板垣は土佐の士族中心の政治結社「立志社」を創設し、翌年、地方議会として府県会を設立した。
1880 年、国会期成同盟を大阪に結成し、新聞や演説会などを通して活動を広げていった。また、大隈重信は政党内閣制を主張し、自由党を創設した。
1882 年、伊藤博文は欧州へ憲法作成のため出張、原案を創り始めた。そして3 年後には、内閣制度を創設し、伊藤自ら初代内閣総理大臣となった。続いて待望の明治憲法が、伊藤らの手によって1889年に発布された。
1891 年、伊藤総理は国会開設の勅諭を受け政党の結成を進めた。明治憲法作成中には、民権派の国民による憲法草案が3千件も提案されたと言われている。日本国憲法の草案・作成に大いなる叡智を絞った明治の元勲は、民撰議院(国会)設立に寄与した自民党党首の板垣退助(1837-1919)、立憲改進党党首で第8代首相の、大隈重信(1838-1922)、憲法草案者で初代首相の伊藤博文(1841-1919)の諸氏である。
大日本帝国憲法と立憲政治
1889年2月11日、「大日本帝国憲法」は発布された。日本国の憲法の主な条項は、①天皇は日本国を統治する。②実際の政治は各大臣が行い、責任を持つ。③国民は兵役と納税の義務を負う。④国民は言論、集会、住居、信教の自由を保障される。⑤国民は選挙権を持ち、衆議院議員を選ぶ権利を有する、などであった。翻訳された憲法は世界に配られた。
イギリスでは、アジアの国に議会制憲法が成立し、古来の歴史や習慣をべースにした穏健な内容に驚いたと 言われ、又ドイツでは、二院制の衆議院と貴族院の組み合わせを高く評価した。
1890年、第1 回目の国政選挙が行われ、300名の国民の代表が選ばれた。第1回帝国議会(国会)が召集され、日本はアジアで最初の憲法をもつ立憲君主国家となった。独自の憲法を持つことにより、日本は事実上完全な独立国となった。
1890年、天皇の名により「教育に関する勅語」が発布された。押し寄せる西洋文化に流されることなく、全ての国民が日本人らしい生き方をするため明治天皇ご自身が、国民に語りかける形式で、ご自身への戒め・目標を述べられている。
それらは、古来より日本人が守ってきた生き方を短くまとめられている。①父母への孝行、②学問や公共心の大切さ、③非常時には国のために尽くすなどの心得を説かれたもので、一人ひとりが日々の生活を過ごす姿勢は、今まで通りで良いのだと諭されている。
国民はすんなりとこれを受け容れ、全国民へ広がっていった。また多くの言語に翻訳され海外にも知られた。
1945年の終戦に至るまで、各学校で用いられ、近代日本人の生き方に大きな影響を与えた。残念ながら終戦直後の議会の決議により否定された。
《補講》 福沢諭吉(1835-1901)の『学問のすすめ』
啓蒙思想家、教育者、慶応義塾の創設者。個人の自由と権利を重視する考え方を説く。生涯、民間教育振興に尽力した。1872年、西洋文明の紹介をした『学問のすすめ』を刊行、新社会は自由・独立・平等の価値観を持つことを宣言した。
この本は100万部を超える大ベストセラーになった。福沢諭吉の言葉で有名なのは「天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず」。「一身独立して一国独立する」また「独立の気力なき者は、恥ずべき時に恥じず、論ずべき時に論ぜず、人さえ見れば腰を屈する」と気力の大切さを教えた。
日清戦争と三国干渉
1882年、金玉均は朝鮮の自立と近代化の必要性を痛感し、仲間を集めて独立開化派を結成した。日本の明治維新を見習い、軍隊制度を改革しようとしたのに対し、日本も援助を始めた。
一部軍人が叛乱を起こし、宗主国である清国に援助を求めたために、清国は直ちに軍隊を派遣し、内乱を抑えた。こうした清国の横槍が入り、日本の援助は無駄となり、日本との対立が深まった。
1886年、清国の東洋艦隊が長崎の港に修理のために寄港した。そこで清国の水兵達が騒動を起こし、死傷者がでた(長崎事件)。清国側は謝罪せず、日本側では清国に対する恐れと怒りが広がった。
1894年、朝鮮南部で農民の暴動が起こった。朝鮮王朝は清国に鎮圧のための出兵を求めたが、日本も清国との申し合せに従い軍隊を派遣したため、両軍は話し合いがつかないまま衝突し、日清戦争(1894ー1895)が勃発した。
朝鮮半島や満州南部まで戦線は拡大したが、日本軍は陸戦でも海戦でも清国を圧倒し、勝利した。日本軍も清軍も兵器は近代的なものを持っていたが、日本軍は訓練や規律が行き届いており、戦う意欲も高かった。
1895年日本と清国は下関条約を結び、①清国は朝鮮の独立を認める。②清国は日本に対して賠償金を払う。③清国は遼東半島と台湾を日本に譲る等が決まった。
清国が日本に戦争で敗れたために、欧米列強は清国を分割の対象とみなし、中国各地に租界をつくった。
ロシアは3年後、旅順、大連を租借し、軍事基地を建設した。日本国民は、「今に見ておれ」とロシアに対して気勢をあげ、官民共になって国力の充実に努めた。