主役は馬車であったが、植民地自体が共同で所有するトラックも、農業に使う合間を縫うようにして使われた。大体、教会の建設は長期間にわたって、ゆっくり建設されていくのが普通なのだが、このクリスト レイ教会の場合は、その常識を破るような勢いで、早く進展していった。もちろん、そこには信者たちによる、奉仕活動が非常に大きなものであったことは言うまでもない。
それは、このブラジルの地方での仕事ぶりのペースとは相容れないものであったが、そこに、このゴンザーガ植民地に住む人々の強烈ともいえる気迫があったと言えるであろう。もっとも、それらの背後には、日本の隠れキリシタンの教会、およびブラジルイエズス会からの少なからぬ金銭的な援助があったことを付記しておかなければならない。それなくしては、このゴンザーガ地区の隠れキリシタンの人々だけでは、このような大工事を完成させるのは、とうてい不可能なことであった。
ともかく、この新しい教会は、思いがけないスピードでその全容を表しつつあった。確かにそれは、キリスト教会の建物であることには違いないのだが、全体から受ける印象では、このブラジルのカトリック教会とはかなり違うものであり、そこから醸し出される雰囲気は、どこか土の匂いが漂ってくるようなものがあり、素朴でありつつ、同時にそれは力強さを感じさせるものがあった。
いってみればそれは、スマートさとは対極にある無骨さが、前面に押し出されたような感じを持つものでもあった。骨組みが、がっしりしていて、建築物としては何のてらいもなく、ただひたすら地味に構えた造り方がむしろかえって目を引くという結果になっていた。
赤レンガで統一されたこの教会の建物は、要するに、遥か遠い東洋の日本という国からこの地にやって来て、この国でその一生を終えるという、彼ら移民の人々の生き様を象徴するようなものでもあった。見かけの華麗さはないが、簡単には崩れ去らないという固い意志が、そこには厳然と存在するもののようであった。そして、その強固な意志がこの一風変わった建物を、農村の環境にはそぐわない形のものながら、強く人を引きつける力を生み出しているようでもあった。
それにしても、これだけのスケールを持つ教会を自分たちだけの力で造り上げようとする、そのエネルギーはいったい、どこから来るものなのだろうか。信仰の力と言ってしまえば確かにそうではあろうけれど、しかし、その底に流れているものには、かなりの精神的な複雑さと奥深さが存在しているのではないか。
クリスト・レイ教会の新築工事を時折り眺めながら、マルコスは不思議な感に捕らわれていた。工事現場での彼らの働きぶりは見事に統一され、その動きに乱れがなく、すべての人々が同じ目的を持って、嬉々として働いているという雰囲気がそこにはあった。そこで働く人々は、いわば奉仕という形での労働であるけれど、誰一人文句を言う者もなく、和気あいあいの空気の中でスムーズに仕事が進められていた。
この団結力は結局、宗教の力から来るものであろうとは思うのだが、マルコスにとってはその面が特に目立つようにして感じられた。たとえばそれは、その流れの中に自分が入っていけるかとなると、ちょっと戸惑いを覚えるというような感じのものであった。