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中島宏著『クリスト・レイ』第53話

 無論、マルコスだってカトリックの信者であるから、キリスト教に対する思いは一緒のはずなのだが、どうも、その辺りになるとどことなく違和感を持ってしまう。どこが違うのか、何が違うのか、と考えてみても、はっきりした答えは見出せない。

 いわゆる信心の度合いの違いということなのかもしれない。

 マルコスは一応、そう考えてみる。たしかに彼の場合は、今まで宗教に対して真摯に向き合ってそのことを深く考えてみたことはない。彼にとってキリスト教は、彼が生まれた時からすでにその信者ということになっていたわけだし、自分がそれを選択して決めたわけでもない。すべて、親たち、そして先祖たちが決めて伝わってきたことであり、そこにはマルコスの意志が働いたという形跡はまったくない。

 いわば、彼の預かり知らぬところですでに、キリスト教信者としての人生をスタートさせている。だから、彼自身は宗教というものに関して深く考えたこともなく、この問題について悩んだというような経験は持っていない。いってみれば彼の場合、キリスト教に対する思考はひどく淡白な感じのものであり、それは日常的な、あるいは習慣的なものとして存在しているにすぎないというような形を持つものであった。

 それに対して、このクリスト・レイ教会に関係する人たちは、それぞれがもっと重い宗教観を抱えているようにも見える。

 もちろん、一人一人に聞いてみたわけではないが、ここにある雰囲気から察した感じでは、彼らの中にある宗教観には、かなりの真剣さとそれなりの内容が詰まっているようにマルコスには思える。彼のように通り一遍の、ありきたりの思考ではなく、ある種の苦悩から生まれて来たものが、人々の心の中でどっしりと居座っているような、そのような重さを感じさせるものがそこには存在していた。この教会の建築工事の現場には、そういう、はっきりとは形容できないが、しかし、明らかに異質ともいえる空気が流れている。

 ここにいる人々だけが共有できる特別の思考は、つまるところ彼らの持つ歴史に根ざしているということなのかもしれない。

 アヤの説明通りだとすれば、ここにいる日本人たちはそのほとんどが、隠れキリシタンの末裔であるという。キリスト教という、それまでの日本には存在しなかった新しい宗教を受け入れたことによって、彼らの先祖たちは想像を絶するほどの苦しみを味わわされたのだが、その苦悩の流れを強制的に受け継がされて来たその子孫たちが、遥か遠いこのブラジルの国までやって来て、彼らにとっては地の果てのような世界で、彼らだけの教会を建てようとしている。それが、マルコスにとって不可思議でもあるし、同時にまた、その心境が理解できそうにも思える。

 ただ、本当のところは、彼に簡単に分かるほど単純なことではないであろう。

 あるいは、アヤと話を進めて行くうちに、何かそこから見えてくるものがあるのかもしれない。そんなふうにも考えてみる。

 教会に関するこだわりは、宗教へのこだわりに繋がっていくものであり、さらにはマルコスの場合、それはアヤへのこだわりにも結びついて行くことにもなる。