画期的だった日英同盟
ロシアは19世紀の末、不凍港を求めて、東アジアに目を向け始めた。ロシアの東方政策として、1891年には大陸横断鉄道の建設に取りかかり、太平洋岸にあるウラジオストックに至るシベリア鉄道の建設を始めた。
「ウラジオストック」とはロシア語で「東方を征服せよ」という意味である。1895年には西部シベリア鉄道が完成、1900年にはバイカル鉄道が完成し、1901年には満州のハルピンまで到達した。1916年には、ついにウラジオストックに達した。次いで東清鉄道を延長してハルピンから大連(港)まで鉄道で結び、ロシアは不凍港を確保した。
1900年、清国では義和団事件が起こった。始めは山東省の武術の集団が暴れ出し、後に清国の首都、北京にまで押し寄せた。その頃北京には欧米日8ヵ国の外国軍軍隊が駐留していたが、義和団は北京を取り囲み、戦闘が行われた。
その戦闘の際、日本の柴五郎中佐の率いる日本軍の戦いぶりと規律の良さと強さが目立った。これが機縁となり、日本は黄色人種でありながら、英国の信頼を得て、1902年に欧州の大国・英国と軍事同盟を締結した。
この日英同盟が、やがて起こる日露戦争において重大な役目を果たし、日本軍に勝利を導く大きな要因となった。この同盟は第1次世界大戦後の1923年に解消されるまで続いたが、当時、世界最大の植民地を持つ英国との提携は、日本にとって数々の素晴らしい結果を引き出した。
1904年、日露戦争が始まった。日本の10倍の国家予算と軍事力を持つロシアは、満州で建設中の鉄道沿線の保護のため兵力を増強し、鴨緑江河口に軍事基地を建設した。
このまま黙認すればロシアは、更に兵員を増強し、満州全土を支配する恐れがあった。また1895年の日清戦争のあと、ロシアはドイツとフランスと打ち合わせ、日本に遼東半島の返還を迫った(3国干渉)。
その後、日本が返還した遼東半島をロシアはそのまま領有し、朝鮮半島の兵力を増やし続け、朝鮮に対する政治的干渉を繰り返し、属国化を果たしていた。また旅順港には、巨大な永久軍事基地を造った。日本はロシアの東方政策を恐れ、満州鉄道が完成する前に、ロシアとの決戦を決断せざるを得なかった。
《資料》日本が英国と同盟を結んだ理由
1)-英国は領土拡張の野心を持たない。通商利益と現状維持を望む。
2)-日英同盟は平和防衛的なものとして、国際世論からも支持される。
3)-英国と結ぶと清国が益々日本を侮れなくなる。
4)-英国が中に入るとロシアが大人しくなり、話しやすくなる。
5)-ロシア海軍は英国海軍より弱い。
6)-通商的に見ると、イギリスの方がロシアよりはるかに上であること。
国家の命運をかけた日露戦争
1904年2月に、日本はロシアに国交断絶を宣言し、開戦を通告した。戦場になったのは朝鮮と満州。乃木大将率いる陸軍は、旅順要塞を攻略、その後、旅順港内のロシア太平洋艦隊を全滅させた。
1905年3月の奉天会戦では、勝利を収めたが損耗が激しく、追撃できず、陸の戦闘は引き分けとなった。1905年5月27日、東郷平八郎司令長官の下、対馬海峡でロシアのバルチック艦隊を全滅させた。
世界の海戦史に残る大勝利を得た(日本海海戦)。この戦いで日本の勝利が確定した。9月には、アメリカの仲介で日露間でポーツマス条約が結ばれた。
日本は戦費が不足し、ロシアは専制政治に対する不満から戦争の中止の機運が高まった。
日本は、①朝鮮半島の主導権は日本が持つことをロシアに認めさせた。②日本はロシアが持つ遼東半島の租借権を得た。③南満州にロシアが建設した鉄道の権益を譲り受けた。④日本の南樺太領有を認めさせた。⑤日本はロシアより戦争賠償金は得ることが出来なかった。
日露戦争は日本の生き残りをかけた大戦争であった。日本はこれに勝って自国の安全保障を確立した。
この勝利は、西洋列強の植民地にされていたアジア・アフリカの諸民族に独立の気運と夢を抱かせた。またトルコ、フィンランドやポーランドの人々には、国家防衛の大切さとその勇気を与えた。
また一方では、白色人種優先主義が、間違いであり、有色人種も独立国家を持つべきで、人種差別をなくそうという機運が高まった。この件は、黄色人種は将来、白色人種の脅威となるという黄禍論が欧米に広がるきっかけにもなった。
《補講》 日露戦争を戦った日本人
秋山好古(1859-1930)=奉天会戦で騎兵隊指揮者として、ロシアのコサック騎兵団と戦いました。日本騎兵の父と謳われました。
好古の弟・秋山真之(1868-1919)は、日本海海戦で海軍参謀として完璧な戦術を作りました。「本日天気晴朗ナレドモ波高シ」と大本営に打電し、そして日本海海戦が始まり、世紀の大勝利を導きました。久松5勇士―宮古島の若い猟師達。彼らは、バルチック艦隊を最初に発見し、荒 海を死にもの狂いで漕ぎ渡り15時間掛かって、石垣島に着きました。さらに30kmの山道を走り、八重山通信局に飛び込み、「敵艦見ゆ」の情報を大本営に知らせました。
世界列強の仲間入りを果たした日本
1905年、アメリカと「桂・タフト協定」を結び、日本は、フィリピンがアメリカの植民地であることを認め、アメリカは日本が朝鮮と満州での指導的地位を持つことを認めた。
日露戦争後の1907年には、日本はロシアと第1次日露協約を結び、相互の権益を互いに認め合った。こうして日本は世界の列強の一員となったが、世界中から警戒の目で見られるようになった。
1908年10月、アメリカは大西洋艦隊の16隻の白く塗った艦船を横浜に入港させた。日本政府はこれを威嚇外交だと察知したが、国を挙げて歓迎することで、その無言の脅しを受け流すことにした。
彼らを載せた列車が新橋駅に着いた時には、1000人もの小学生にアメリカ国歌を歌わせるなど、日本は政府、民間を挙げて、アメリカへの友好の姿勢を必死になって示した。日露戦争でロシアを西へ押し返したとたんに太平洋を挟んで生まれた新たな緊張を象徴する出来事だった。
1910年、日本は韓国の韓国国民党の必死の願いを入れ、諸外国の賛意を得た上で韓国の併合を断行した(韓国併合)。併合政策の一環として①鉄道の敷設、②灌漑施設の整備、③土地調査の実施、④学校の開設(併合時には100 校しかなかったが、8年後には4600校)、⑤日本式教育とハングル文字の導入などが行なわれた。
清国は日清戦争に敗れたことで、武力の弱さを露呈し義和団の乱により、列強による中国大陸への進出が進み、清国の威信は地に落ちた。非征服民族である漢民族は、260年もの間、征服され続けた清国を倒す機会を得た。
1911年10月、中国の武昌で武力蜂起がおき、各地に波及、共和制の国家を造ろうとする孫文らのグループが出て、清国の打倒の波が起った。その中心となったのが日本に留学していた2万人を超える留学生であった。
孫文は1912年1月、中華民国の成立を宣言した。2月には清国の宣統帝が退位し、満州族が作った清国は滅亡した。これを辛亥革命(しんがいかくめい)という。
《補講》明治国家を背負った政治家・伊藤博文(ひろぶみ)
伊藤博文は、明治の3傑と言われる。西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允の3人が1877年ごろ相次いで没した後を継いで、明治時代を作りあげた政治家です。日清、日露の大きな戦争を戦い、憲法を制定し、議会政治を発足させ、条約改定など明治時代の重要な事柄を遂行しました。
①彼は、岩倉視察団で欧米を廻った時、一行を代表し、「日の丸演説」を行ないました。「廃藩置県」について、「日本は数百年続いた古い制度を一発の弾丸も撃たず、一滴の血も流さず、撤廃した。こんな国が世界のどこにあるだろうか!」と胸を張りました。
②更に、日本の国旗を指して「あの赤い丸は、今正に昇ろうとする太陽を象徴し、日本が欧米文明のただ中に向かって躍進する印であります」と締めくくり、万雷の拍手を浴びました。
③伊藤が残した最も大きな業績は、憲法制定と国会の開設です。1882年より 1年余り、ヨーロッパに留学し、ドイツの憲法学者から講義を受けました。帰国後の1885年には、45歳で初代の内閣総理大臣に就任し、憲法を発布し、アジアで唯一つの憲法に基づく議会政治を行う国家を創り上げました。
④1909年、日露戦争後の極東問題をロシアと協議する途上、満州国ハルピン駅頭で、大韓帝国の民族運動家に暗殺され、波乱の人生を閉じました。生涯、伊藤の行動を支えていたのは、「日本という国家を思う心」でした。
第4節 近代産業と近代文化の形成
近代産業の発展とその背景
日本の産業革命は、明治政府の手によって海外で発展している工業を見習って進められた。1880年頃より約20年間に、日本銀行を設立し、金融制度を整えた。
また官営の工場を造り、軌道に乗ると民営化し、民間の手で運営させ、綿糸、生糸、綿織物など重要な輸出産品を作り出し、海外に向けて輸出した。
1889年には新橋~横浜間の鉄道を開通させた。全国にも鉄道が広がってゆ き、道路の整備も進められた。交通の整備が進み、特に駅周辺が開発され発展しだすと、さまざまな副業が出来るようになり、農村にまでその影響が及んだ。全国で農業から工業へ移行し、日本国全体が活気づいた。
1901年には官営の八幡製鉄が開業、大々的な鉄鋼の生産が始まり、1905年には1万トンクラスの船も造れるようになった。
これら産業の近代化は、江戸時代からの民衆の高い教育水準、勤勉の精神、努力と工夫、自分の人生を独自につくろうという国民の意欲などが国民の間で満ちあふれ、産業の近代化に大きな勢いをつけた。
この頃には街角には時計が置かれ、正確な時刻に合わせる生活習慣が広がり、工場労働者なども時間で管理されるようになった。反面、社会的な問題も起こり始め、工場労働者の低賃金、長時間労働なども問題になり始めた。労働組合運動も盛んになり、公害や鉱毒問題なども起った。
《補講》日本の実業家の伝統を作った渋沢栄一
超有能な明治時代の実業家で、『論語と算盤』を著わし、日本の実業家の模範となりました。「一身一家を繁栄させ公益をもたらし日本を豊かにすべし」「商人は信用を第一にすべし」「道徳と経済を統一し公共心を重んじよ」「富は社会に還元し、弱者を救済せよ」等々、名文句を数々残しました。
1840年生まれ、6歳で中国の古典を読みこなし、1864年、24歳で武士の身分を得、第15代将軍徳川慶喜に仕えました。1867年、板倉使節団に選ばれ、欧米を視察、一年間英仏蘭を見て廻り見聞を広めました。
銀行家が将校達と歓談しているのを見て、日本にもやがてそのような時代が来ること、また商売人は誇りを持って仕事をするべきこと、株式会社の形態が社会の発展の基になること、など日本の経済界の将来の姿を考えたと言われています。
1873年、第一国立銀行を創設以来、次々に東京ガス、帝国ホテル、キリンビール、など株式会社を興しました。
この他、東京養育院、沢山の慈善団体、病院などを造り、商業学校の設立や社会教育救済団体など、生涯に 600 以上の会社や団体を創ったと言われています。