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特別寄稿=我が青春の思い出=聖市イピランガ区在住  小池 庸夫(つねお)=(下)

 その頃、ラルゴ・ピニェイロス辺りはまだ石畳の道。コチア産業組合があり、馬車で荷物を運んでいた時代だ。とても活気が漲っていた。
 土曜日、日曜日、大工道具を引っ提げて、テオドロ・サンパイオ通りの商店街を一軒一軒回り、何か簡単な仕事はないか御用聞きして回る。
 すると有るわ有るわ。次々と「ここに棚を作ってくれ」とか、「扉を反対に開くようにしてほしい」と注文が入った。この頃になるとブラジル語で少しはコミュニケーション出来るようになっていた。
 その週末に働いた稼ぎが、一月分の給料に匹敵する程になっていった。
 何時までもこんな事を続けて行けるとは思って居なかった。そうしたある日、マリアが私を誘った。地区にシルコ(サーカス)が来る。テントを張って、それを見に行こうという。
 ピポッカ(ポップコーン)の袋を買って、二人はまるでナモラーダの気分。有頂天になって居る私に、「ニーチャン、私もパパイもあなたをとても信頼している。だから工場をしっかり守って欲しい」と喜ばしい言葉についホロリ。

トイレで大失敗

 その頃も次々とユダヤ人からの用品店改修の仕事が入り、どうしても私の手を借りなければ追い付かなくなっていったのだ。
 給料上げるから工場の仕事に力を注いで欲しいという。駆け引きである。仕方なく元通り土、日曜日、自分の仕事を打ち切り、会社の仕事に力を注ぐ事にする。
 今思えばその頃が町中の景気も工場も一番の好景気であったような気がする 。1963年頃だ。
 そんなある日、ジュデウ(ユダヤ人)の大邸宅にアルマリオ・エンブッチード(備え付け家具)取り付けを頼まれて、もう一人の職人と二人で取り付けに行く。昼頃、小便をもよおし、トイレは何処か教えてもらった。「そこの通路コレドールを真っ直ぐ行き左側だ」と言うので、幾つもの部屋を通り、左側にある取ってを回し、中を見てビックリ。真っ白のタイル一面、大広間だ。大きな寝っ転がって入れる浴槽に二つの便器がある。
 その頃まだ私は知らなかったけれど、一つは上、下の用を足すところ。もう一つの便器は用を足すものではなく、女性が用事を済ませた後、局所を洗い流す為のビデ。
 そういったことも知らず、どちらも同じようなものだと思い、ビデの方に小便をするが、なかなか流れて行かないではないか。手前の方に二つ蛇口がある。
 それを回して見たところ、いきなり顔に噴水だ。まわりが水びたしになって大変な失敗をやらかす。田舎から出てきて、まだそんなものがあること見たこともない。カイピーラだった。
 さてそうした中、私の運命をかえた大きな出来事があった。
 この本文の始めに記した、これ迄の出来事は全て現実にあったこと。

幻想世界の出来事

 いよいよ此れからの話は「幻想の世界の物語」としてお察し願いたい。
 ある日曜日の事。何時も主人山田氏ご夫妻は、昼食後必ず町の日本映画を観に行くので、家族の者も各々出かけていて、家には誰も居ないはずである。私一人部屋で日本に出す手紙を書いていた。
 所が誰も居ないはずの中庭の方からマリアの声。「ニーチャン、トランプしよう」と言って、私の部屋に入ってきた。手持ち無沙汰でもあり、「ウン、やろうか」と言うことになり、小さな部屋なので座る所もない。マリアはいきなり私のカマ(ベット)の上にあがり、大股を広げ、胡座をかく。その前にトランプを出して私と向かい合って座る。
 どの様なゲームをしたのか。とにかくトランプをめくっては中央に出す。その頃、私21歳、マリアも女盛りだ。本能がうごめき始める。
 目の前に大股を広げた、其のつけねの所、薄いズボンをはいたその割れ目の部分がくっきりと見える。もう自分が何をしているのか、ボーっとなって、トランプどころではない。私の男の魂はいきり立ち、もうどうしようもならなくなってしまって、遂にその時がやって来る。
 私の心の内が戦っている。「エーイ、やってしまえ」「イヤイヤ、待て。やってしまったらおしまいだぞ!」「お前の一生に関わる問題だぞ!」と良心がせめぎ合ってあっている。
 この時、もはやわたしの理性はコントロールが効かなくなっていた。獣の如く、相手に襲いかかり、無我夢中で彼女の密着しているズボンもパンツも剥がしとって、自分のはいているズボンも脱ぎ捨てた。カーマの上なので、簡単に行動に移すことができた。彼女自身、そうなる事を予測していたかのように、私の行動になにも拒む事なく、協力さえして受け入れてくれる。
 その間の行為、動作にしろ、彼女に陶酔していた。
 その行為の最中、何となく隣の部屋に誰か入ってきたような気配がしたけれど、もうその最中、何があろうと行き着く所まで行かねばならない。途中で止める事など出来ない。
 おじいさんが帰って来ていたのかも分からないが、隣の部屋の事を察し、そそくさとと出ていってくれたのかもわからない。目的達成後、マリアはズボンをはき、何食わぬ顔して出ていった。一辺の後悔の念に駈られる様子もなく。
 それからも次々と大きな契約を結んで来て、会社も儲かっていたであろう。親父さん、あの当時あまり見たこともない外車エスツージベーケル。当時としてわは珍しいハンドルの所にギア(カンビオ)がついている車を乗り回し、羽振りのよいときであった。
 私もその頃には日本を発つ時、父がアドバイスしてくれた通り、残ったお金は銀行に預けず、成るべく屋敷用の土地を月賦で払い、2、3カ所を買っていた。
 マリアの行動は相変わらず外泊する事が多く、どこで何が在るのか知る由もなく、親が許しているのであるから…。
 マリアとあの行為があった後、私の心配は彼女が子を宿しはしまいかと気掛かりだった。運良くそのような気配もなく、事前に避妊薬でも飲んでいたかもわからない。
 このまま家族に勧められるままにマリアと結婚したとして、果たして上手くやって行けるだろうか。心から互いに愛しあって結ばれたなら、何とかなるだろう。しかし利害の絡んだお互いに利用しての結びつきであれば、いつかは壊れて行くであろう。そうしてにその時が来る。
 日頃、パーキンソン病気もあり、丈夫な体ではなかった 山田氏が車の追突事故にあい、むち打ち症で体が動けなくなった。しばらく養生していたが一月余りの間に帰らぬ人となってしまう。
 木工所の社長一家の大黒柱を失い、束ねる者がいなくなると、回りにガタが来はじめる。マリアは父の存在を盾にしていたであろうが、それがいなくなった今、ユダヤ人との契約も時代と共に薄れて行く。不況の波が打ち寄せる。

意を決して新たな道へ

最後に出会った同船者、北村慧光夫妻

 人はいつも真心をもって物事に当たっていれば、いつか必ず報われる時が来るものである。
 それはある時、イピランガ区シルバー・ブエノ街で店の陳列棚を仕上げて居たとき、偶然の出合いがあった。それは移民船アフリカ丸の同船者のなかに、一組だけ広島県出身の若夫婦がいた。北村慧光師ご夫妻だ。船内で偶然知り合い、その時は互いの健闘を祈って、お別れしたのであった。
 その彼が偶然通りかかって、私の顔見つめ「アッ、小池さんではないか」「エッ、北村さん」といった調子で抱き会う。その事がきっかけで以後、深いお付き合いとして繋がっていった。
 そして彼の小さな家内工業、漆器工場の後を引き継ぐことになるのである。そうしたなか、マルセナリアの仕事は次第に下火になって行く。
 そのうち、頼みにしていたジョゼーさんも定年で辞めてしまう。塗装していたお爺さんも寄る年波には勝てず、日本の娘さんの所に帰って行く。いよいよ寂れていった。山田氏に一人息子がいたけれど、只の一度もマルセナリアに顔を出したこともない。親のスネをかじって生きて来た。
 いよいよ私にも決断を迫られる時が来た。マリアと結婚し、このマルセナリアをたち直すか。果たして上手くやって行けるだろうか。その自信もないまま、相談できる相手も居ない。母親とも話会える相手ではない。
 妹等ナモーラばかりしていて、ほとんどの家に居ない有り様だ。やむ無く心を打ち明けられる相手と言えば、長女レジーナしかいない。彼女を訪ねて見ることを決心。
 彼女の夫はアウト・メカニカを開いて、その頃はラッパ区にすんでいた。儚くも清らかな青春の想い出を胸に、誰にこの胸の打ち明かすすべもなく、結局は決断すべくは自分しかない。
 小さな女の子を授かり、幸せそうに暮らしている。とりとめもない四方山話の末、これ以上深入りして迷惑をかえてはいけないと簡単な挨拶だけでお別れする。
 それがレジーナとの最後の別れとなり、以後逢うことはなかった。
 意を決し、ここを去って新な道を選ぶか、それともこのままずるずると茨の道を歩む事になるのか。

締めくくり

 締め括るに当たって一言付け加えておく。一部個人の名前、別名を使った箇所あり。一瞬の過ちによって、人生は取り返しがつかない方向に行ってしまうこともある。
 実際には(マリアとの交り)あの時、理性が打ち勝って思いとどまったのである! 今思えばあの時いいチャンスだったのにと残念にすら思うことももある。しかし、あの時、思い止まったからこそ、今の幸せがあるのだ、と。
 それと私が行動に移したのは、マルセナリアが下火に向かう前だった。北村師との親交が深まり、その為マルセナリアを去るに当たり、ひと悶着あり、その事で警察沙汰にまでなってしまった…。
 一時期ご恩に預かりながら、喧嘩別れとなってしまったこと――只一つ我が人生の汚点として残してしまった。
 お互いに信頼するということは、大切なことではあるけれど、利害の絡まった信頼は時期が来ると壊れてしまう。
 カッポン・ボニートで過ごした僅かな期間、あの時の農作業の苦労は、以後サンパウロに出てきてどんな苦難にあっても、「あの時の苦労にくらべれば」という私の人生に尊い教訓を与えてくれた。
 私が山下農場を去った後、子供たちは成長し、大学にはいるころには、皆サンパウロに私の後を追うように出てきて、60年経過した現在に至るまで、孫の代まで兄妹弟として交流は続いている。
 全くのゼロからはじめ、他人の力を借りながら、上へ上へと少しずつ少しずつ信用を得て、途中道に迷いながらも、正義を貫くことで、人生必ず勝利を納めることができる。

左端から孫娘16歳と娘、小池さん、中央の白い服が小池さんの妻、その右が12歳の孫ともう一人の娘

今我が人生返り見て

 偶然とも言える出逢いを、「よき出逢い」に導くには、利用されただけに終わらすことなく、それを踏み台として、いかにして自分を伸ばすことができるかが肝要と言える。
 共同経営で何かの事業を始めるに当たっても、常に相手の長所、短所を知り、自分の欠点をいかに補って行けるか五分五分であるべきだ。
 常に人生は闘いである。なかなか思い通りには運ばない。しかし、きっとチャンスに恵まれる時が来る。努力を惜しまず、誠実に歩んで行きたいと念ずる所である。(終わり)