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特別寄稿=秘められた日米友好物語=敵国から「トモダチ」へ=サンパウロ市在住 酒本恵三

アーレイ・バーク米海軍大将(Unidentified photographer / Public domain)

 平成23(2011)年3月11日。日本に甚大な被害をもたらした東日本大震災が起こりました。自衛隊、警察、消防が必死の救援活動を繰り広げました。
 この時、アメリカ軍が「トモダチ作戦」と銘打ち、瓦礫の除去や多くの救援物資を届ける復興支援をしてくれました。実は、この話の裏には今から60年以上前におきたひとつの物語があったのです。
 それは大東亜戦争(太平洋戦争)の終結からわずか5年後、昭和25(1950)年9月のことです。まだ戦争の傷跡が残る日本に、一人のアメリカ人がやってきました。
 太平洋の中でも、日米合わせて9万人以上もの犠牲を出した激戦「ソロモン海戦」で日本軍の脅威となった男です。そのアメリカ海軍の総督の名は、アーレイ・バーク(1901-1996年)。彼は敗戦国日本を支配する占領軍の海軍副長として、アメリカから派遣されてきたのです。
 「朝鮮戦争」勃発の直後でした。バークが東京の帝国ホテルにチエックインした時のことです。
従業員「バーク様、お荷物をお持ちします」
バーク「やめてくれ。最低限のこと以外は、私に関わるな!」
 彼は敵だった日本人をとにかく嫌い、侮蔑していました。日本軍の真珠湾攻撃によって親友を失い、血みどろの戦いで多くの仲間や部下を失っていたからです。消えない心の傷は、日本人への激しい憎悪へと変貌していたのです。
 「我々にとって、日本人を一人でも多く殺すことは重要だ。日本人を殺さないことならば、それは重要ではない」という訓令を出したほどでした。
 また、公の場で日本人を「ジャップ」「イエロー・モンキー」と差別的に呼び、露骨に日本人を蔑みました。したがって、日本人の従業員たちが話しかけても無視していました。「腹立たしい限りだ! 黄色い猿どもめ!」
 日本に来てから一カ月ほどしたある日のこと。「なんて殺風景な部屋なんだ!」ベッドと鏡台とイスだけの部屋に、せめてもの慰みにと、バークは一輪の花を買ってきてコップに挿しました。「せめてもの慰めだな」。
 このあと、この花が意外な展開をたどることになります。翌日、バークが夜勤から戻ると、コップに挿した花が、花瓶に移されていたのです。彼はフロントに赴き、苦情を言いました。
バーク「なぜ余計なことをするんだ。誰が花を花瓶に移せと言った?」
従業員「恐れ入りますが、それは当ホテルのサービスではございません」
バーク「何だって?」
 この時は誰が花瓶に移したのか分からなかったのです。さらに数日後…。何と花瓶には昨日まではなかった新しい花が生けられていました。
 「いったい誰がこんなことを…」。花はその後も増え続け、部屋を華やかにしていきました。
 バークは再びフロントへ行きました。
 「私の部屋に花を飾っているのが誰なのか。探してくれ」
 ホテルが調べた結果、花を飾っていた人物が判明しました。それは、バークの部屋を担当していた女性従業員でした。彼女は少しの給料の中から花を買い、バークの部屋に飾り付けていました。
 それを知ったバークは、彼女を問い詰めました。
 「君はなぜこんなことをしたのだ?」
 「花がお好きだと思いまして」
 「そうか。ならば、君のしたことにお金を払わねばならない。受け取りたまえ」と彼女にお金を渡そうとするバーク。
 ところが彼女は「お金は受け取れません。私は、ただ居心地よくお客様に過ごしていただきたいと思っただけなんです」
 「どういうことだ!?」
 アメリカではサービスに対して謝礼し「チップ」を払うのは当たり前のことです。
 しかし、彼女は受け取りません。このあと、彼女の身の上を聞いたバークは驚きました。彼女は戦争未亡人で、夫はアメリカとの戦いで命を落としていたのです。
 しかも、亡き夫も駆逐艦の船長で、ソロモン海戦で乗艦と運命を共にしたのでした。
 それを聞いたバークは「ご主人を殺したのは私かもしれない」と彼女に謝りました。
 ところが彼女は毅然としてこう言ったのです。
 「提督。提督と夫が戦い、提督が何もしなかったら、提督が戦死していたでしょう。誰も悪いわけではありません。」
 バークは考えこみました。そしてバークは気ずいたのです。みんな同じ立場であるということを。
 「自分は日本人を毛嫌いしているというのに、彼女はできる限りのもてなしをしている。この違いは、一体何なんだ?!」
 心のしこりが消え去って行きます。のちに、「彼女の行動から日本人の心意気と礼儀を知った。日本人の中には、自分の立場から離れ、公平に物事を見られる人々がいること。また、親切に金で感謝するのは日本の礼儀に反すること。親切には親切で返すしかないことを学んだ。そして、自分の日本人嫌いが正当なものか考えるようになった」
 バークの日本人に対する見方はこうして一変したのです。バークは一刻も早くアメリカ軍の日本占領を終わらせ、日本の独立を回復するようにアメリカ政府に働きかけるようになりました。
 加えて、日本の独立と東アジアの平和を維持するために、日本海軍の再建を説きました。まだ終戦5年後ですから、アメリカ人の大多数が反日感情を持っている中です。

海軍兵学校墓地に建てられているアーレイ・バークの墓。傍らに置かれているのは海上自衛隊から送られたリース(当時の海上幕僚長吉川榮治海将名義、U.S. Navy photo by Mass Communication Specialist Seaman Chris Lussier / Public domain)

 バークは根気強く説いて周り、ついに海上自衛隊を作る事に成功したのでした。1991年、バークは96歳で亡くなります。各国から多くの勲章を授与されたバークですが、葬儀の時に胸に付けられた勲章は、日本の勲章ただ一つ。それは本人の遺言でした。
 そのため、ワシントンの海軍博物館にあるバーク大将の展示には、日本の勲章だけが抜けたままになっています。
 そしてときは流れ、そんなバークの日本に対する思いは、ある人物に受け継がれて行くのです。
 平成23年3月11日、東日本を巨大地震が襲います。この戦後最大の国難に察して、在日アメリカは直ちに「OPERATION TOMODACHI=トモダチ作戦」を発動しました。
 このトモダチ作戦で、いち早く日本へ駆けつけたのが、空母ロナルド・レーガンでした。本来、韓国へ任務で移動中でしたが、震災の発生を知り、災害救助支援の指令を待たずに、艦長は東北に船を向かわせました。 人道主義に則って判断したのです。
 その艦長の名は、大佐トム・バーク。そう、あのアーレイ・バークの孫! バーク艦長は独断で日本の救援に駆けつけたのです。
 バーク大佐はヘリコプターのパイロット出身。空母のことは副長に任せておき、救援物資を積んだヘリを操縦して難所を飛び回りました。
 このような自然災害が発生した場合、世界中でどんな光景が見られるか知っていますか。まず住民たちによる食料の取り合いが始まります。
 こうなると、ヘリコプターといえども危険で着陸できないそうです。なんと着陸した途端、被災民が銃をぶっ放して、食料を奪いにくることもあるのです。したがって、たいていは低空からの空中投下になるそうです。
 しかし、日本の東北地方の光景は、今まで世界で見てきた他の国とは全く違うものでした。ヘリコプターが着陸しやすいように、どの避難所にも、ヘリ着陸の目印「H」が書いてありました。
 そしてヘリコプターが着陸すると、被災民たちが荷降ろしを手伝い、それが終わったら、全員がお礼を言って見送ります。これには、世界各地で救援活動をしてきたバーク大佐も驚きました。
 「東北地方では、一件の略奪も殺し合いもなかった」と、軍の機関紙「星条旗」に書いています。
 さらに、住民たちは必ず「ここはこれだけで良いから、別の避難所に持って行ってくれ」と言います。そんなことを言われたことも、日本だけだったそうです。
 人間、極限状況にある時ほど、その本性が現れると言います。トム大佐は帰国後、日本で経験した驚きの出来事を家族に話しました。
 もし、バーク大将が生きていたら、「そうじゃろう。じーちゃんが日本好きになった訳がわかったじゃろう」と応えたかもしれません。
 時が流れていくと、変わってしまったり、失われたりしてしまうものがある中で、変わらないのが日本人の「人を思いやる心」です。いつまでも守り伝えていきたいですね。(インターネットより)