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アジア系コミュニティの今=サンパウロ市で奮闘する新来移民=大浦智子=フィリピン編<2>

アン・アラードさん

アン・アラードさん

 アン・アラードさん(51歳)はフィリピン人の父親と中国人の母親のもと、母親の暮らしていたフィリピン北部のイサベラ州サンマリアーノで生まれた。5歳からは首都マニラに近い父親の郷里ブラカン州サンミゲルに引っ越し、同地で成長した。
 両親は商売を営んでいたことから大学で会計学の学士号を取得し、大学卒業後は、いとこが中東の人材派遣会社の代理店を経営していたことからカタールでの仕事を紹介してくれた。当時、海外での仕事は、フィリピンで働くよりも3倍の給与を稼ぐことができたからだ。
 1989年から2年間はカタールのデパートで会計の仕事に従事した。その後、1993年にはクウェートに渡って5年間SPAの仕事に就き、それからフィリピンに戻って警察官の最初のご主人と結婚した。
 一男一女に恵まれ、育児とSPA(温浴施設)の仕事やマニラに拠点を置く米国企業のコールセンターで言語トレーナーの専門家やインサイドセールスマネージャーとして働いていた。
 その間も、シンガポール、マレーシア、インドネシア、アラブ首長国連邦などを見聞して過ごし、2003年にはマカオで半年間SPAの仕事を本格的に学び、マッサージ師の資格も取得した。やがて夫が勤務中に被弾して亡くなり、2012年にはフィリピンで知り合ったカナダ人の男性と再婚したが現在は別居している。
 2016年には再びカタールで1年、同国の現首長の妹のパーティードレスや装飾品選びの相談役として働いたが、給料は安く、一度フィリピンに戻った。その後ブラジルにいる家族づきあいのあったフィリピン人の友人の招待で来伯することになった。
 「ブラジルでは自分がお手伝いさんをすることになりました」。 フィリピンで勤務していたコールセンターは夜勤も多く、アンさんはお手伝いさんを雇いながら家事と育児を両立していた。「ブラジルでのお手伝いさんの給料や労働環境は、フィリピンと比較しても決して良くありません」とも。

中東から一転、ブラジルへ

 2018年8月、アディスアベバを経由してグアルーリョス空港に到着。サンパウロに来て最初の滞在先となったのが、地下鉄ポルトゥゲーザ・チエテ駅の近くにある行政から差し押さえられた元ホテルの廃墟だった。
 そこは数年前から住宅を借りることのできないアフリカからの難民や移民を中心に、300室に約400家族が暮らしていた。家賃は電気水道代も込みで月200レアル。フィリピン人友人も暮らしており、3日間世話になったが、ビルと周辺の環境が悪く、友人が紹介してくれたアンさんの勤め先となる雇用主の自宅に移動した。
 最初の雇用主の家で1か月間お手伝いさんとして働いたが、正社員として登録できなかったため、友人は2人の子供がいるレバノン人の家に転勤させた。そこで10日間住み込みで働いたが、雇用主はその間の報酬を支払わず、友人はアンさんを連れ出し、アンさんもお手伝いさんの仕事から離れる決心をした。

タイ料理店THAI E-SANでフィリピン人の従業員たちとアンさん

タイ料理店THAI E-SANでフィリピン人の従業員たちとアンさん

 結局、友人は帰国用の飛行機チケットを渡してくれず、途方に暮れていた時、タイ料理店を経営するマリリンさんと出会い、1カ月間彼女の仕事を手伝いながら腕に覚えのあるマッサージ師の仕事を紹介してもらうことになった。「韓国人のオーナーはとても良い人で、仕事も大好きです。でも、報酬がコミッション制なのでお客さんがいない時は厳しいですね」
 アンさんはブラジルに長期間滞在する予定はなかった。カナダ人のご主人とブラジルで合流し、カナダに移動するつもりだったが、話が食い違い、実現しなかった。
 観光ビザの期限が切れる2018年11月、帰国する選択肢がなくなったため、アンさんは難民申請を行った。プロトコールを得て納税者番号も取得し、就労も可能となった。だが今は難民申請中なので、ブラジルを一端出国すれば戻れなくなる。(つづく)