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中島宏著『クリスト・レイ』第67話

 うーん、これはたしかにアヤが言うように、微妙かつ複雑な問題ですよ。
 そうなると、このブラジルに来ても、同じカトリックとはいうものの実際にはそこに、かなりの隔たりがあるということが、現実に分かってくる。その辺りになるとたしかに、簡単には解決できそうもないテーマということになりそうですね」
「同じキリスト教なのだから、別に問題はないように思われるけど、でも、現実には私たちの場合、そこのところが結構難しいのね。たとえば、マルコスのようにカトリックの国に住むブラジル人から見れば、ちょっと理解できないかもしれないわね」
「結局、同じキリスト教のカトリックでも、日本を通じるカトリックと、ブラジルを通じるカトリックとでは、その内容が違うということになるのかな。それはつまり、言語や習慣の違いから来る差が、なかなか埋まらないということなのでしょうか。もし、そうなら、地球規模の思想を持つはずの宗教も必ずしも理想通りにはいかないということになりそうですね。国が変わることによって、その受け取り方や理解度が変わるとすれば、これはかなり厄介な問題ということになります」
「これはね、私個人の考え方なのだけど、私たちのような隠れキリシタンという存在そのものが、特殊じゃないかと思うの。それは、マルコスの言う、言語とか習慣の違いによって説明できるものでもなさそうね。というのはね、日本でキリスト教が認められて、完全に自由な行動を取れるようになってからも、私たちの先祖は、新たにやって来たキリスト教カトリックの宣教師たちと、簡単に話し合って理解できるという心境にはなれなかったわけでしょう。でも一方で、それを受け入れた日本人たちもいたわ。
 あの当時、隠れキリシタンとは関係なかった人たちで新たにカトリックの信者になった人たちは結構いて、その人たちは何の先入観もなく、ごく自然にキリスト教を受け入れていったのだけど、隠れキリシタンの人たちの場合は、それができなかった。
 この場合は、言語とか背景にある文化というものは何も関係がなかったということになるでしょう。同じ日本人でも一方は拒絶し、他方は受け入れるという現象は、まあ、普通とはいえないわね。だからね、マルコスの言うように言語とかの問題じゃなくて、何と言うのでしょう、考え方の違いというか、そこに、人々の持つ感情的なもの、あえて言えば文化的なものが入ってくるわけね。そこで問題が複雑になり、ちょっと分かりにくくしているのだと思うの」
「そこをアヤは、特殊な事情というわけですね。なるほど、その辺りの気持ちが分からないと、この問題を本当に理解することは難しそうですね」
 アヤとマルコスの会話は、少しずつ深みに落ち込みつつある。
 この程度ではまだ、納得できるという域にまでは達していない。もちろんそこには正しい答えというものはないが、しかし、この、かなり複雑な、隠れキリシタンの人たちが持つ心境に、ある程度は近づいてみることができるのではないか。
 そしてそのことは、このブラジルという、彼らにとっては異郷の国であるからこそ、その辺りの心情風景がもっとシャープな形で現れてくるのではないか。マルコスは、真剣な表情で話すアヤの顔をまじまじと見ながら、そんなふうに考えていた。