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《記者の眼》=死者の日に君塚大使を想う=移民の恩人の墓を誰に託すか

君塚大使(砂古友久さん撮影)

君塚大使(砂古友久さん撮影)

 「恩人の墓の後事を託したい」—-そんな内容の投書が本紙10月27日付け3面読者投稿欄『ぷらっさ』に掲載された。筆者は砂古友久さん(91)。戦後初の駐ブラジル大使、君塚慎(1891~1956年)の私設秘書を務めて公私共に支えた人物だ。実際、君塚大使の墓石を訪ねて様子を覗いてみた。

 君塚氏は1952年、東山事業体の総支配人を長年務めた実力を見込まれ、民間から戦後初の駐ブラジル大使に抜擢された。在職中には大戦中に資産凍結された邦人企業資産の解除に奔走した。
 吉田茂首相(当時)に働きかけ、後の日本海外移住振興会社の設立にも貢献した。55年の吉田内閣解散に準じて退官。翌56年に復職した東山の職務のためサンパウロ市滞在中に脳出血で亡くなった。
 砂古さんは東京外語大卒業後、東山企業に就職した後、君塚氏の大使任命に伴い、私設秘書としてリオに随行、公私両面からその生活を支えた。
 君塚氏の死後、墓石の管理は東山銀行が行っていたが、三菱銀行による東山銀行買収、続く東京銀行による三菱銀行買収で管理事業は打ち切られ、以降は君塚氏を慕っていた故・田中福造さんと砂古さんが墓守の任を遂げてきた。
 高齢の砂古さんは、数年前から車の運転が出来なくなり、清掃用具の運搬が困難に。投書では墓石を十分手入れ出来ず申し訳ないとの思いが吐露され、昨年には家族から歩行外出が禁じられ、墓参りすらも出来なくなったと近況を述べている。
 「死者の日」を目前に控えた10月31日。砂古さんの投書に触発され、君塚氏の墓のあるアラサー墓地(地下鉄クリニカス駅直傍)を訪ねてみた。
 墓地の敷地は広く、緑が豊か。当日は晴天だったが、前日まで降り続いた雨によって通路にも墓にも落ち葉が降り積もっていた。
 入口近くの墓は大きく立派で装飾細工の凝ったものが多い。奥に進むに連れ、だんだんと破損した墓石が増えていく。
 砂古さんの投書に「墓石に貼った生年没月日刻字の銅板が盗難され、金色刻字の黒い石板の発注に奔走したこともあった」「蓋石がずれ、遺体安置の暗室が覗けていた事もあった。蓋石をもとに戻し、持参した固定剤ヅラポッキシで再発防止策を講じた。もう再発しないはずだ」とあったのを思い出す。
 破損した墓は埋葬品を狙った墓荒らしによって壊されたもの。破損したまま放置された墓はやがて取り壊しになるという。

君塚大使の墓

君塚大使の墓

 区画Q86A。入り口から250m。黒い墓石に「SIN KIMITSUKA」と白字で刻字された墓を見つけた。目立った破損も無く、状態は良い。ほっと一安心。
 しかし、見ればすぐ左横の墓は刻字銅板を盗られ、通路を挟んで右側の墓は蓋石が剥がされ、半分崩壊している。管理する人が居なくなったら君塚氏の墓もこうなってしまうのだろうか。
 砂古さんは「墓石正常維持の確認のためにも文協で年一度の清掃予定を組んで頂きたくお願いします」と述べていた。墓石を前にそれを思い出し「大使を務めた人物の墓のあるべき姿とは」「なぜ君塚氏の墓がブラジルにあるのか」「後事を託すに足る者は誰か」「そもそも墓に祀ることの意味とは何か」など様々な思いが胸裏をよぎる。だが、答えは出ない—-。
 木漏れ日に温む君塚氏の墓石からは故人の遺徳が伝わってくるようだ。この静穏な空間に相応しいのは、冥福を祈る気持ちだけだろう。
 君塚氏が設立に尽力した日本海外移住振興会社は現在、国際協力機構(JICA)としてブラジル社会の開発に貢献している。
 君塚氏の遺功に感謝し、ゆっくりと両手を合わせ冥福を祈った。(石)