汎ソロカバナ日伯連合文化協会青年部と、国際NGO「国際キフ機構」ブラジル支部(KIFブラジル)が主催する「ブラジル日本移民シンポジウム」が、7日(土)午後2時から4時半までオンラインで初開催された。モデレーターの原田清弁護士を中心にして、現代における日本移民の歴史の意義や、どうやって日本文化を継承するかなどについて、古参二世の有識者ゲストから若手のパネリストまでが熱く意見を語り合った。ポ語のみ。2時間48分の録画映像はユーチューブのKIFブラジルチャンネル(http://www.tinyurl.com/kifbrazil)でいつでも無料視聴できる。
最初にKIFブラジルの村上パトリシア会長が開会の挨拶をし、出席者を紹介した。
当日のモデレーターは原田清弁護士、パネリストには原田弁護士主催の「日本移民史論文コンクール」第1回(2018年)優勝者の栗田クラウジオ氏が自分の論文「ブラジル日本移民の要因と結果」について、第2回優勝者のカワセ・アレシャンドレ氏が「日本文化の継承への課題」について語った。
ゲストには上田雅三氏(STJ=連邦高等裁判所の元判事)、吉岡黎明氏が招かれた。
楠彰在サンパウロ総領事館首席領事が挨拶し、「論文を書くという行為は、日本文化に対する深い理解を醸成するすばらしい機会だと思う。次の世代が、この豊かな歴史への関心を深め、それを継承することに期待する。原田氏の取り組みに賛同する。若者たちの取り組みと、それに対する協力者の皆さんに祝辞を送りたい。このライブ映像がブラジル全体の若者に見られることを期待したい」と祝辞を送った。
ブラジル日本文化福祉協会の石川レナト会長は「日本移民史を継承し、広めることは重要。原田清氏のリーダーシップに敬意を表したい」「文協は今年65周年を迎える。この取り組みが他の行動に広がることに期待したい」と語った。
外務省研修生OB会の上原テリオ会長も挨拶し、「日本移民をテーマとしたこのイベントに関心をもって参加するすべての若者を祝福したい」と温かい賛辞を送った。
日伯が融合した日系ブラジル文化
ゲストの上田雅三氏は次のような基調講演をした。
「このイベントは移民112周年を記念し、コミュニティの将来を模索するもの。ブラジルの大地にしっかりと根ざしたものである。1908年6月18日、最初の笠戸丸移民がサントス港に上陸したときは、サンジョアンの祭日で、花火がたくさん打ち上げられていた。それを自分たちへの歓迎の証と移民たちは勘違いしていたなど証言が残っている」と紹介した。
さらに監察官(インスエペトール)、アマジオ・ソブラルがコレイヨ・パウリスターノ紙に寄稿した次のような感想文を紹介した。
「52日間の航海を経て、最初の日本移民が到着した。その船を検査したとき、その清掃が行き届いた様子に感銘を受けた。皆、庶民的な出自の様子にもかかわらず、きちんとした洋装をしており、男はネクタイをしていた。日露戦争の勲章を胸につけている人もいた。完全なる清潔さをもって、他の移民とは明らかにちがう様子は強い印象を残したとある。これは、サッカーW杯の際、負けた試合の後でもサッカー場をキレイに清掃して帰る日本人サポーターたちに通底したものがある」と上田元判事は指摘。「この日本人性、市民性という共通性を、我々も忘れてはならない」と説いた。
さらに「そこから一世紀以上経って、今は200万人にも増えて日系ブラジル文化を形成している。それは、ヨーロッパ、インディオの文化と同様に、日本文化も混交されたもの。この多様性がブラジルの特徴である。サケピリーニャ、味噌味のステーキもその象徴である。ただしサッカーで日本とブラジル代表が対戦すればブラジルを応援するが」とした。
また「マスクをする習慣は、もともと日本のものだった。ブラジルにはなかった。コロナ対策として、今ではブラジルでも一般的になった。日系ブラジル文化は、ブラジル的だけでなく、日本的でもある。原田清論文コンクールで優勝した二つの論文のテーマをベースにして、このシンポジウムは進められる」と高らかに開会を宣言した。
全伯の日本移民史を概覧
文協福祉担当理事・吉岡黎明氏は「地方の移民史」に関して話し始めた。「日本人移民や黒人の導入に関しては、戦前、賛否両論があった。サンパウロ州政府はリスクを冒して日本移民をコーヒー農場に導入した。その20年前に黒人解放令によって、労働力が足りなくなっていたからだ。農場に導入された日本移民は鍬の使い方、コーヒー豆の収穫の仕方、ポ語、食べ物もまったく分からなかった。奴隷小屋に住まされ、困難の連続だった。言葉の不自由さは、とくに特記される。多くの場合、夜逃げの原因となった」と初期移民史をなぞった。
1910年、1912年頃に後続が送られ、同じことが起き続けた。吉岡氏は「リベイロン・プレット、フランカなどモジアナ地方では1年間の契約期間を終えた後、日本移民は州内各地に広まっていった。とくに鉄道工事の延長線の先へ先へと入っていった。ノロエステ、ソロカバナ、モジアナ、アララクアレンセなどの鉄道線にそって、日本移民はどんどん入っていって米生産、野菜生産を始めた。
日本政府はイグアッペに土地を取得し、1912年には日本移民を受け入れ始めたことも特記される。ここで米の生産も始まっている。カフェランジア、プロミッソン、ビリグイなど広がっていった。アリアンサ移住地、チエテ移住地など大規模なコロニアも作られ始めた」との概要を述べた。
さらに「アウタ・パウリスタ地方では、ポンペイアに、後にJACTOを創立する西村俊治さんが入植した。ソロカバナ線では、アルバレス・マッシャードなども有名だ。戦前戦中は綿の生産が有名になった。コーヒー国際価格が下落してサンパウロ州では生産が禁止されるにいたり、禁止されていなかったパラナ州に多くが移っていった」との大きな流れを説明した。
アリアンサ移住地出身の吉岡氏は、「私は個人的に、ノロエステ線をよく知っている。バウルーからボリビアまでつないでいた。この地域だけで、野球のチームは20もあった。日本移民独特のスポーツだった。
パラナ州入植はカンバラーから始まり、アサイに大きな移住地が作られ、マリンガーなどもどんどん入っていった。そこで育った子孫が教育のために州都クリチーバに出て行った。ペルー、ボリビアからも日本移民が鉄道工事夫の仕事を求めてやってきた。カンポ・グランデなどはとくに沖縄移民は多かった。
北部では1928年頃から、パラー州トメアスーなどに入り始めた。カカオ、米などの生産を試み、ピメンタ・ド・レイノでようやく成功した。ただし、病気が入って苦労をし、それを乗り越えるために今では森林農法を編み出した」と全ブラジルの移民史にも触れた。
「1930年頃からパリンチンス、マウエスではカカオ、ジュート(黄麻)の生産を始めた。大変勇敢な移民たちで、アマゾンの大森林に立ち向かった。移民初期のことだ。本山省三サンパウロ州立大学歴史学教授などが移民史の研究をやってくれているが、まだまだ貴重な歴史が埋もれている。もっと最近のことも書かれていない。そこには豊かな歴史が埋もれているはずだ」と締めくくった。
政府の情報統制が生んだ勝ち負け抗争
続いて、原田清氏も戦中戦後史の説明をした。「戦争前後に日本移民がペリーゴ・アマレーロ(黄色い危険人物)と呼ばれた時代があった。タケウチ・ユミの著書からそれを紹介したい。1941年3月、連邦政府は枢軸国側移民の資産凍結令を出し、42年8月に正式に連合国側に立って戦い始めた。その間、邦字紙強制廃刊、日本語を公衆の場で話すことの禁止、サントス強制立ち退きなどが続々と起きた。勝ち組負け組抗争が起き時、コロニアの大半は勝ち組であった。特攻隊が形成され、23人の殺害が実行された。
1460件の刑事訴訟が起こされ、ドゥトラ大統領はこれらの勝ち組団体幹部の国外追放令を出した。ジュッセリーノ・クビチェッキ大統領はそれに対しアネスチア(恩赦)を出した。
この勝ち負け抗争は、すべての日系団体を統合した1955年の文協創立まで続いた。その後、ページがめくられ、日本人に対する悪印象が裏返されて、現在になっている。これらが起きてしまった主な原因は、ブラジル政府が、邦字紙廃刊をしたために正しい情報が入らない状況に陥ったことがある。この時代の特に大きな汚点は、トメアスーに枢軸国移民を集めた強制収容所をつくったことだ。米国と同じようなものだ。アマゾナス州政府はそれに対して謝罪もした。そのような日本移民史の多くは、80年代までに書かれているが、それの時代にまでに書けなかったことがあった。
二世は戦後、大学に入って、医学、工学、法学などで活躍を始めた。当時『医学部に入るには日系人を殺せ』と言われたほどだった。二世たちは社会上昇を初めて、ブラジル全国で積極的な存在を示し始めた。3権において。その一人は、上田判事だ。日系で最も上の役職となった。
あと陸軍でいないのは大将だけだ。最もエリートがあつまると言われる海軍でも将校が生まれた。外交官、大学では300人の教授、200人の司法関係者、小説家、大学幹部など出ている。そんな現在を、私は「移住統合第4期」と呼んでいる。
今の日系社会は、ブラジル社会の一部である。イタリア系、ドイツ系と同じだ。日本移民100周年をブラジル社会全体が祝ってくれたことは特記すべきことだ。上田判事がいうとおり、日系社会という孤立したモノはなく、あるのはブラジルの一部たる日系社会だ。そこでは、次の世代に日系文化が伝えられている。今はそのような最後の統合段階にあり、孤立したエスニック集団はすでにない。ブラジルの統合性を補強するものだ」と戦中戦後史を中心に述べた。
「あなたは世界の反対側へ行くのに何を旅行カバンに入れますか?」
原田氏は講演者として2018年の論文コンクール優勝者・栗田クラウジオさんを紹介した。
「私は四世です。先祖は1913年にレジストロに入り、その後、サンパウロ市に出て、私はペーニャ、ヴィラ・レーで育った。原田氏のコンクールは、若者に移民史への関心を喚起するために作られた。このライブを見ている若者は、ぜひ自分の身の回りのことに関心を持ってほしい。私も研究者ではなく、親や祖父から聞いた話が元になっている。基本的には口承だ。
原田さんは今が第4段階だと言っている。私は08年の移民百周年にボランティアで参加して大井セリアさん、桜井セリアさんらからいろいろと学び、関心が高まった。それから10年の間、温めていたものや気付きがあり、それを原田氏のコンクールに刺激されて文章としてまとめた」と心の中の動きを説明した。
「論文を書く最中にも、いろいろな気づきがあった。笠戸丸移民は神戸港を就航して、汽車でコーヒー耕地まで到着した。今なら前もってインターネットで旅程を調べられるが、あの当時はなにも分からなかった。コーヒーの木には金がなると言われていた時代だ。その大半は日本に帰らなかった。その旅行カバンの中身を想像してみてほしい。移民史料館にも展示されている。この旅行カバンに何を入れようかと皆悩んだに違いない。仏壇、お気に入りの本、三味線など。旅行カバンは移民にとって重要なものの象徴だ。あなたなら、世界の反対側に旅行に行くのに何をカバンに入れますか」と問いかけた。
「豊かな歴史が移民史にはある。日系人はブラジル社会の一部であり、私たちは誇りを持ってブラジル人だと胸を張れる。そこにはオジイチャン、オバアチャンの汗や血がしみこんでいる。これは米国大陸の日系人全体の共通点だと思う。もし、オジイチャン、オバアチャンが生きていれば、彼らと会話してほしい。そこには貴重な家族の歴史がある。先祖がなぜブラジルに来たのか。日曜日のお昼ごはんで家族みんなが集まった時とかに。今はたくさんの本、映画、史料館もある。若者はもっとルーツに関心を持ってほしい」と呼びかけた。
司会の原田氏は「ラテンアメリカへの日本移民はペルーの1899年からはじまり、彼らの一部はボリビアに渡った。でもボリビアには1950年代に新しく作られた日本人コロニアがある。そのサンファンとかコロニア・オキナワは、まだ閉鎖的な感じだ。だが、ブラジルはその先の統合最終段階にある。なにがブラジル日系社会をして統合を進ませたと思うか?」と質問した。
それに対し、栗田さんは「ボリビアやパラグアイを訪ねたが、あちらでは戦後移民が多く、二世、三世もまだよく日本語を良くしゃべる。まだ世代が若いと感じた。ブラジルは移民112年の歴史を持つし、国土の大きさも異なる。中でも、教育の問題が大きいと思う。ここで大学教育を受けるには大都市に出る必要がある。そうすると日本人集団地を出なければならない。コロニアを出ると考え方が変わる。これが統合に向かった流れの中心だろう。サンパウロという大都市に出て教育を受けることで、統合が自然に進んだと思う」との見解を説明した。
原田氏は「日系人の社会上昇に関するパーフェクトな説明だ。大学教育は、日本移民がとくに力を入れた点だ。これは、ほかのボリビア、パラグアイも同じだ。あと日系政治家が生まれたことも大きい。政治家はブラジル社会における存在感そのものだ。ラテンアメリカ最初の日系政治家、田村幸重は1948年に市議になり、連邦議員にまで上り詰めた最初の人物だ。彼は国全体のことを扱いながら、日系社会のことも手厚く対処した。彼らは、日系社会とブラジル社会のつなぎとなって、どんどん絆が深まった。ブラジルはエスニックが混合した社会だ」と政治家の役割を強調した。
対する栗田さんは「原田氏が言うとおり、政治家の存在は重要だ。とくに高い地位にいる人は影響力が強い。ほかの国の日系コミュニティに比べても、連邦議員が常に多くいることは、とても重要なことだ。将来的に、もしかしても日系人の大統領がでることもあるかもしれない。今はその前段階かもしれない。国としての決断の場に日系政治家がいることは重要だ」と同調した。
さらに原田氏は「カナダでは戦時中、二世も強制収容された。1950年代の末にようやく市民権をえることができた。米国の日系人は大変な苦労をした。収容所の話だけでなく、米国陸軍でもっとも勲章を多く受けた日系部隊『第442連隊戦闘団』の歴史は、まさにそれを象徴している。それぞれの国には、それぞれの日系人の歴史がある。勝ち負け抗争は他の国にはない、ブラジル独自のもの。それぞれの国には、それぞれの歴史ある」と締めくくった。
ユダヤ系など他コミュニティと比較
論文コンクール2019年優勝者のアレッシャンドレ・カワセさんは、「日本文化継承の戦い」について、次のように話した。
「原田氏が始めた論文コンクールは、大変な刺激になった。オジイチャンたちの話を深掘りする良い機会になった。論文を書く上で、最初の疑問は『ブラジルは多文化共生の国であり、他のエスニックはどうしているのか』という疑問だった。
代表的な5つのコミュニティの話を聞いた。もっとも移民がたくさんやってきたイタリア系、さらにポルトガル系、ドイツ系、スペイン系、人数は多くないが強く伝統を残しているユダヤ系だ。幾つもの論文を読みコミュニティの人の話を聞いた。
たとえば、イタリア系コミュニティの代表的な一つであるノッサ・セニョーラ・アキロピッタ教会の人、カーザ・デ・ポルトガルの会長、パウリスタ・ユダヤ協会のラビ(宗教的指導者)にも会いに行って話を聞き、文化継承の価値について尋ねて回った。
そこで思ったのはイタリア人、ポルトガル人は芸能伝承に力を入れ、ポルトガル人、ユダヤ人は国際的ネットワーク形成に力をいれていることだ。対して日系人は、芸能にも力を入れ、海外日系人大会とかCOPANI(汎米日系スポーツ大会)とか国際的ネットワーク形成もやっており、両方ともに利がある。アキロピッタ祭り、オクトーベル・フェスチ、県連日本祭りなどのイベントも同様に盛んだ。
ブラジルではパンデミック前は、毎週のように日本祭りがいろいろな町で行われていた。ユダヤ人も若者向けのプログラムをたくさんやっている。日系は外務省、JICA、県などいろいろな研修制度がある。社会福祉は、イタリア系、ユダヤ系は地域社会への貢献を一生懸命やっている。日系もやっている。
結論としては、文化継承に関して日系もかなりやっていることだ。500日系団体がブラジルにはある。日系人は、ブラジルにおいて一定の地位を築いている。すでに日本文化はブラジル人の嗜好に入っているが、さらに非日系人に広げていくことが今後の課題といえる。
「ガイジン」と言う言葉には、侮蔑的なニュアンスがあると言われるが、実際はそうではない。「コミュニティの外の人」を「ガイジン」と言っているのが本当のニュアンスだ。
だが、日本文化が好きなブラジル人の存在は重要であり、「Não Nikkei」(非日系)という否定する言い方ではなく、new系(ニューケイ)という言葉を提案したい。「日本人の血はなくとも、日本人のコラソン(心)を持っている新しい人」という意味だ。
日系アイデンティティを強化すること。これは、自分がブラジル人であることを前提にしている。2018年、文協青年部で「プロジェット・ジェラソン」を始めた。なにが日系ブラジル人の価値なのかを探る企画だ。それを子孫に伝えていく。我々が子孫として受け取ってきたものを、ブラジル文化に合わせて、さらに子孫に。それには8つの価値があると分かった。国際日系デーでそれを発表した。
それを日系文化のエッセンスとして次の世代に伝えたい。国際日系デーは野村アウレリオ市議の働きによりサンパウロ市公式カレンダーに入った。
子供時代に愛情を受けた記憶は、日本文化と密接につながっている。それがルーツへの関心を高める。すべての日系人には家族ピクニック、運動会、テルテルボーズ、おじいちゃん、おばあちゃんなどの言葉に込められた、独特のカリーニョ(愛情)の記憶があり、その積み重ねがライース(ルーツ意識)を作り上げる。
日系社会は全伯に広がっている。そのネットワーク強化は重要である。各地で日本祭りが行われている。マナウスは昨年90周年を祝って青年部が「ジャングル祭り」を初開催し、関口総領事のおかげでサンパウロからも我々が呼ばれて繋がりを強めた。コミュニティを統合するにはテクノロジーが必要だ。チリでは若者たちは2、3年前に「レージ・ニッケイ」交流サイトを作った。そのサイトを訪れる若者を中心に、2018年のオフ会イベントでは実際に100人の若者が集まった。すこしずつ若者の動きがかみ合ってきている。
パンデミアによってテクノロジーが取り入れられ、全伯の日系社会の統合が進んでいる。第2回日系オンラインイベントが開かれ、サンパウロ、マナウス、ボルト・べーリョ、ボア・ビスタ、アラカジューの7都市に住む40人がオンラインで集まって、経験を交換した。
外務省研修生OB会もそうだ。6日にラテンアメリカのオンラインOB会が終わったが11カ国から集まった。日系人が300人しかいないキューバからも参加があった。11人の大使も参加した。次の世代への変遷が重要だ。
日系社会のリーダー役に関して、良くいわれるような「バトンを渡す」のではないと感じる。バトンを渡したら抜けるのではなく、誰がバトンを持っているかに関わらず、みんなが常に試合に参加している状態だ。だが、代表選手としてはベテランがどんどん抜けていく。みんなが常に一緒にやっている中で、主導権だけ渡していくのが良いと思う」。
それに対し、原田氏は「いろいろな視点を持ち込んでくれて、大変豊かな内容だった。現在の世代は五世、六世になっている。一説にはとっくに100%混血になっているとの話もあったが、今でも日系人同士の結婚は起きている。どうやって世代を越えて日本文化を継承出ると思うか?」と質問した。
カワセさんは「プロジェット・ジェラソンは、ハワイでの海外日系人大会に参加した経験からインスピレーションを受けた。あそこには八世がいた。もう日系の顔をしていない世代だが、日本文化を継承していた。その秘密をさぐり、ブラジルでも日本文化を広げるためにあのプロジェットをはじめた。
一つは、家族のなかに日本文化が残っていれば継承される。子供時代の記憶が大人になっても強く影響を与える。おじいちゃん、おばあちゃんとの会話。愛情記憶の存在が大事だ」と回答した。
さらに原田氏は「小説、マンガ、スポーツ、映画など日本文化を伝達する手段もある。それらを通して、考え方を伝える。実際、剣道の規範・礼儀作法は、ブラジルの経営幹部層にも研究されている。
日本は集団主義、ブラジルは個人主義でまったく異なる。生活習慣を通してその両方の長所を馴染ませてとり入れた日系ブラジル式の文化が作られて伝えられてきている。ブラジル人としての心の中に、日本の心をはめ込み、刻み込んでいる。
ブラジルでは、どんなに汚職がバレても地位をすてない政治家がおり、そいつは反省するどころか、告発した者を訴える心根までもっている。これは、日本の文化とまったく逆だ。日本ならむしろ自殺するぐらいだ。部下の失敗も自分のものとして引き受ける、それが「日本人の心」だ。それを、子孫の心に刻みつけることが大事だ」と総括するコメントをした。
質疑応答とシンポ総括
質疑応答の時間は、プレジデンテ・プルデンテ在住のイワタ・ユリさん(KIFブラジル)がオンラインで次のように仕切った。
「たくさん質問もらったが、うち2つの代表的な質問を選んだ。これを講演者に回答してほしい。『日本語が上手でないのに、どうやって日本文化や歴史を継承するのか』『会館の再活性化をどうしたらいいと思うか』だ。
【原田】日本語能力は基本的なものといえるが、今はテクノローを使って、それをかなり補える時代になってきていると思う。
【カワセ】ボクは2つめの質問に答えたい。会館の役割を考え直すことが再活性化につながる。今、何ができるかを考え直し、自分がどんな貢献をできるかを考えることが大事だ。これは日系人同士だけでなく、地域社会にとって役に立つプロジェクトも視野に入れるべきだ。
すでに会館という場所があるから、地域のコワーキング(協働スペース)の場所にするとか。日本文化をそこに含めるような何かがあってもいい。
【栗田】一つ目の件だが、私も日本語をしゃべらない。でも「知りたい」という気持ちはもっと大事だ。日本語しか話さない人と交流するには、話せる人に手伝ってもらえばいい。大事なのは、自分の知りたいという気持ちだ。
二つ目の件は、ボクも30年間考え続けていることだ。地方だけでなく、サンパウロ市内もそうだ。地区の会館は同じ問題を抱えている。団体の役割を考えなすこと、今にあわせて適応することが重要だ。コミュニティ・センターとして、その地区の行政機関と連絡を取り、すでにある会館の建物を、地域のために開放する。施設を大きくすれば若者が参加するのではない。活動の中に若者を巻き込むものがあるかどうかが問題なのだ。「カイカン」と言う言葉は、地方ではとても一般的な用語になっている。一般社会にも役に立つ、地方行政機関にも使ってもらうことが大事だと思う。
【ユリ】では、パネリストの皆さんに総括をお願いします。
【上田】とても意義のあるセミナーだった。話を聞きながら、父や母、叔父叔母は先駆者だったとしみじみ感じた。母の家族は1917年にノロエステに入った。平野植民地などのことは子供時代の記憶だ。妻の家族は、1911年にブラジルにきている。サンパウロとミナスの州境に入った。数年前に、彼女の家族が入ったファゼンダを旅行で訪ねた。そこでは1910年代に日本移民が米作りに邁進し、米作りの農業組合が最初に作られた。サクラメントの町だ。
そこに関係している我々はまさに歴史の一部である。私が77歳ということは、まさにこの時代を生きてきたということだ。このような歴史見直しの取り組みを歓迎する。時間をさかのぼることを歓迎する。この移民のサーガ(年代記)を聞くことを推奨する。調和のとれた将来、誇りのある未来のために。
【吉岡】日本語の問題は、けっして必要最低条件ではない。もっと大事なのは、日本文化だ。日本政府は日本語をビザの用件に求めるが、これはまったく違うと思う。どう相手を扱うか、どう接するかは日本文化の部分だ。日本文化をどれだけ理解しているかこそ、ビザの要件にして良いと思う。
2つめのの件に関して、サンベルナルドのアルモニア学生寮は「アルモニア学園」という教育施設に変わって地域社会に貢献している。地元のニーズに合わせた存在に変わることは重要だ。今後、会館は高齢者に対するニーズを拾い上げる存在になって、役に立ってほしい。
【栗田】もっとこのライブを見ている人たちに言いたい。もっと移民史を学んで、研究して。それぞれの家族が、地域が持っているすばらしい歴史に関心をもち、掘り起こしてほしい。かつて戦って今を築いた先人のために。
【カワセ】ボクは栗田と同い年の41歳だ。日本では厄年だ。これも日本文化の一つ。コロニア・ジャポネーザはコムニダーデ・ニッポブラジレイラになった。日本人同士の助け合いの場から、ブラジル社会にどう貢献するかという組織に変わった。日本をルーツとする良き市民としてどう振る舞うかを考える段階になっている。
【原田】子供の時代、畑で働いて、コーヒー豆を収穫し、米を作り、綿の収穫で指先を血だらけにした。両親のおかげで1959年に聖市に出てきて、大学法科を卒業した。兄たちはその間、毎日畑で働き続けてくれた。すべての子供を大学にやることはできなかった時代だ。
だから、いまでも兄たちのエンシャーダに感謝している。そのような、本当の無名の英雄の活躍があればこそ、現在のような完全な社会統合が果たせたのだと改めて強調したい。