しかし、契約して来ている以上、今さら破棄することもできず、まして日本に帰ることすらできない。そこのところをどうしてくれるか、というのが人々の抗議であった。だが、上塚にしてみれば、単なるブラジル現地での代理人にすぎず、彼自身、何の権限も決定権も持っていなかった。怒り狂う移民の人々に対して、皇国殖民会社の立場の人間としてはただひたすら頭を下げてあやまるしかない。そして、彼はそれを実施した。
すべてを一身に引き受けて、上塚は方々の農場を廻って、謝罪と説明を繰り返していった。のみでなく、彼は農場主たちと直接交渉することによって、雇用された人々の労働条件の改善や、賃金の交渉などを率先して行い、できるだけ彼ら移民たちの立場に立って、有利になるように努力を続けていった。
その働きの誠実さと真剣さが認められて、やがて上塚周平は、次第に移民の人々の信用と支持を獲得し、彼を応援する人々が増えていった。上塚は、このような厳しい条件下でも、また自分の直接的な責任でなくても、決してそこから逃げることはなかった。その辺りが、他の現場の責任者たちとは違っていた。
移民の人々と一緒に現場に入った通訳と称する人々の中には、通訳の仕事もろくにできず、交渉ごともまったく苦手で、逃げてしまうという輩も結構いたから、その点、上塚はかなり違った人物といえた。彼は、移民たちの苦労をそのまま自分のものとして感じ、考え、そして解決に奔走するというタイプの人間で、絶望の淵に立たされた人々にとって、上塚は誠に頼もしい、信用できる存在となっていった。
そんな彼が、皇国殖民会社を複雑な事情のせいでやめた後、第二回移民以降は、竹村殖民商館の代理人となって、日本へ帰って引き続き移民事業に関わって行くのだが、結局これも種々な事情から、第五回の移民輸送をもって停止に至ってしまう。しかし、上塚周平はその後もブラジル移民のことが忘れられず、現地で移民の人々が、自営の形で農業ができることを目的とした植民地を創設できないものかと、つてを頼って奔走し、ようやく出資者の目途も立ち、実現に漕ぎ着けることになったのである。
細かな経緯は省く。
とにかく、上塚は様々な人たちの支持を取り付けることによって、理想でもあった念願の移民の人々のための植民地の創設に着手した。
それが、ノロエステ線のプロミッソンにあるイタコロミー植民地の発端である。
創設されたのは一九一八年であったが、実際に農作物の生産が始まったのは、翌年の一九一九年であった。ひとつの符号ではあるが、この年にあの平野植民地を創設した、平野運平が亡くなっている。明暗を分けるような話だが、悲運だったカフェランジアの平野植民地に比べて、このプロミッソンの上塚第一植民地は、すべてが順調に推移していった。
もちろんそれは、簡単なことではなかったが、少なくとも平野植民地のような悲惨な結果に陥ることもなく、大きな不運に見舞われることもなかった。