当時の日本では、同じような発想のもとに、朝鮮や中国への進出の流れが大きくなっていたが、上塚の考えは、世界というものを相手にするのであれば、それはアジアに限定するのではなく、もっと広く、ある意味ではもっと将来性のある西洋の文明が支配する国々に進出すべきだというものであった。そして、その実現の可能性があるのは南米なのではないか。それが彼の持論でもあった。
特に、国が巨大であるということでも、ブラジルが有望であるというのが上塚の構想の元となった。実は、それとまったく同じようなことを考えていたのが、鈴木貞次郎である。いってみれば移民というものに関して、あるいは日本人の将来というものについて、上塚と同じ思想と構想を、彼自身も持っていたのである。
第一回の日本人移民に起きた問題と、自らの苦い経験を下敷きにして、もっと現実的な、しかも同時に、将来を見据えた独立自営としての理想的な植民地の形を、このブラジルで造り上げられないものかというのが上塚の構想であった。鈴木がその上塚の意見にのめり込むようにして共鳴したのも当然であったといえよう。
上塚は、移民の人々からの支持は絶大であったし、植民地内の運営に当たって問題は何もなかったが、対外交渉や政治的折衝のことになるとあまり得意ではなかった。その点、ポルトガル語も十分に出来、ブラジルでのその方面での経験も豊富な鈴木貞次郎は、その辺りを驚くほどの機敏さで解決していった。
それはまさに適役であったし、時間の経過とともに植民地にとっても彼は、貴重な存在となった。上塚第一植民地としての土地所有権の登録とか、入植した人々それぞれの登録といったことも、鈴木の働きですべてが確実に行われ、後になって問題が生じてくるということもなかった。当時、特に開拓前線にあった地方の土地は、所有権のことで常に問題が起き、諍いが絶えないのが普通であった。
もう少し後の時代だが、日本人移民が独立して、自分の農場を購入しようとしたとき、ブラジルの事情に不慣れな上に、ポルトガル語も完全には理解できないというハンディのために、だまされるという事態に陥ることが、各地でしばしば起きた。特に、まだこれから開拓されるような原生林のままの土地は、このような問題が起きる確率が高かったのである。
上塚周平の植民地構想は見事に実を結び、初期日本人移民たちの自作農の先駆けとなったわけだが、無論、この成功は簡単に勝ち得たということではない。
何しろ、上塚を頼って集まって来る人々の大半は、ほとんど着の身着のままという状態で、まったく余裕がなかったから、上塚や鈴木たちにとってこの植民という事業は、営利のみを考えた場合、まるで見返りの薄いものであった。農地の分譲、販売の段階では、長期の分割払いにも関わらず、大半の人々がその支払いを滞納させた。
純然たる金儲け主義でやるには、あまりにも可能性が低すぎるものだったことは明らかである。半ば援助というような形で日本から融資してくれた人々に対する支払いも、決してスムーズにいったわけではない。