上塚が新たに植民地を創設するという話があちこちの地方の日本人移民たちに伝わると、多くの希望者たちが競うようにして集まって来た。その中には、今村の隠れキリシタンの人々も含まれていた。前述したように、この時点での移民たちは、まだ余裕などなく、分譲地であるにしても、それを即金で払えるという者はほとんどいなかった。そういう厳しい状況からの出発であった。
独立自営農業が、決して絵空事のように楽なものではないことは分かっていても、いざ、この不気味ともいえる異国の大地での開拓に挑んでみると、その厳しさは尋常一様のものではなかった。日本という小さな国の常識からは考えられないような事態が頻発し、それへの対応もなかなか思い通りに行かないということが繰り返された。
ここで、人々は出稼ぎに根ざした発想がいかに甘いものだったかを思い知るのだが、ここまで来て引き返す、あるいは逃げ出すわけにはいかない。肉体的にも、もちろんそうだが、このような状況下ではむしろ、精神的な苦痛の方が何層倍か大きかったのではないかとも思える。
それに耐えられなくなった人間は挫折し、酒に溺れていくことになる。ブラジルの地酒であるピンガは、日本人の体質にはあまりにも強すぎ、それによって身体を壊し衰弱していく者も多かった。このように、日本から見れば訳のわからない異郷で生き延びていくには、よほど強靭な精神力を持っていないと勤まらない。
これは、移民というものの持つ宿命とも言えそうだが、とにかく、この一線を満足に越えられない者は、そこから敗者への道を辿らなければならないことになっていく。
精神的な強靭さは、肉体的なものや、普段の見かけ上のものには現れないが、一旦、周りの状況が悪化していき極限に近い厳しいものになっていくと、そこから明確な形で、その強さが現れてくるものである。
ブラジルへ移民してきた人々の、その後の生き方の明暗を分けたのは、まさにその辺りの差であったといえるであろう。
今、ここに述べつつあるこの物語の時代は、上塚第一植民地が創設されてからは丁度二十年が経とうとしている頃にあたる。
そして、この同じ植民地の一画にあるゴンザーガ地区にも、やはり同じ月日が流れている。ただし、ここではこの同じ期間、一人の落伍者も出なかった。
それだけ結束が強かったということもあったが、隠れキリシタンの人々の場合は、最初から、この新世界に恒久的なものを造るという確固たる目的があったというところに、他の人々とは違った何かを持っていたということであろう。
その何かは、宗教的に支えられた精神的なものであったかもしれないし、最初から生きる上での明確な目標を持つことの強さであったのかもしれない。いずれにしてもこれらの人々は、自身をこの見知らぬ大地に投げ出すようにして生きていくことによって、異郷での自分たちの人生を切り拓くという、朗々として迷いのない道を歩いて来たといえるであろう。
その過程は決して楽なものでもなく平坦な道でもなかったが、今になってみると、そこに築かれた土台は強固なもので、たとえ環境の変化が起きても、簡単には崩れ去ることのない形がそこには出来上がりつつあった。その形は必ずしも経済的な問題という現実的なものだけではなく、もっと奥深い所にまで達する、生きていく上での礎となるような、そんな観念的な域に達しているようなものであった。