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中島宏著『クリスト・レイ』第86話

 そこにあるものは、ブラジルのカトリック教会とは変わった形のものであり、イエス・キリストの像にも、同様の変化を読み取ることができる。では、それはキリスト教のものではないかと問われれば、明らかにそこには間違いなくキリスト教が存在する。
 しかし、同時にそこには、ブラジルのカトリック教会のものと一致しないという側面がある。少なくとも、表面的なものだけからいえば、このクリスト・レイ教会は、その外観から内部の雰囲気まで、まるで異国のものを見ているという感じすらある。
 もしマルコスが、アヤを始めとする、この地区の住民たちとの接触がまるでないという状態で、この教会を突然見せられたとしたら、おそらく、その内容の意味がよく分からなかったであろう。
 無論それは、醜悪なものを見るというような性質のものでは決してないが、それは何か次元の異なる世界を覗いたような感覚に近いものであった。確かに、ここにあるものは、古代ローマの時代から受け継がれてきた形のものであり、いわゆる、初期のキリスト教の聖堂を伝統通りに踏襲している形のものであるから、たとえば身廊と交差廊とを造ることによって、十字形を成すという基本を持った建築物であるという点では、まさにローマ カトリックそのものであることは理解できるのだが、そこに漂う明るさと自由な雰囲気には、どこか異質のものさえ感じられる。
 クリスト・レイ教会の持つ不思議さは、そんなところにあった。
 宗教に詳しくないとはいうものの、生まれてからのカトリック信者であるマルコスは、当然、カトリック教会の形とか佇まいとかは、すでに馴染みのものであり、それ以外のものにはかつて触れたこともなかったから、この教会の異質な世界には、正直なところ、ある種の驚きと好奇心さえ抱くことになった。ただ、彼の場合はアヤとの会話によって、彼ら隠れキリシタンの人々の歴史的な背景を知ることができたから、そこから、この教会の持つ形が少しずつではあるが理解できるようになっていた。

 さて。平田アヤと、マルコス・ラザリーニの会話は、二人が定期的に会うことによって、あちこちに場所を変えつつ、さらに続いていった。おそらく、この種の対話は際限がなく、いつまでも、どこまでも続いていくのであろう。それは、純然たる宗教論であったり、若さゆえの青春の理想論であったりした。
 しかし、それにしても、これだけの会話が途切れることなく継続していくには、それなりの思考力と、それに劣らないほどの情熱と持久力を必要とするのだが、どういうものかそれは、アヤにもマルコスにも同じように備わっていたというべきであろう。このようなことが常に起きるものとはいえず、この二人の間にはお互いに何か引き合う力が働いていたようであった。
 そこには、青春というものが持つ独特の心情風景があったであろうし、若さだけが持つ、ひたむきさと情熱とが相交えるようにして存在していたということであったかもしれない。いずれにしてもそこには、二人にとって今まで経験したことのない、新しい境地に踏み込んでいくというような緊張と高揚感とがあった。
 しばらく、その二人の会話を紡いでいくことにする。