去る12月7日、スザノ福博村の大浦文雄氏が亡くなられた。享年96歳であった。
氏は多方面に活躍された方で、ある面「コロニアの顔」として、日系社会の、特に福祉活動に力を注いでおられたのは周知のことである。
しかし、こういった公人とは別に、氏が個人的にライフワークとしておられたものに文芸活動がある。文芸と一口に言っても幅は広いが、氏が得意としていた分野は詩(ポエジー)であった。「詩人大浦文雄」として同好者間にその名を知らぬ者はおらず、ある時期斯界のリーダーのお一人として活動の頂点に立っておられたこともある。幼少期に家族と共に渡伯され、青年期には詩への興味が芽生えて、同地に在住していたベテラン詩人横田恭平氏と出会ったことで才能の開花を見、地域の青年会活動の傍ら詩作の道へのめり込んで行った。1961年に横田氏との共著詩集『スザノ』を刊行され、また、全伯で活動していた詩人たちが結集して1976年に創立した詩誌「亜熱帯」などに活動の場を見出し、詩作への情熱を燃やしたようである。
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氏が私の主宰する季刊詩歌誌「ふろんていら」に初登場したのは、2011年9月発行の30号で、東北大震災のあった半年後のことである。
発表されたのは『八十の日のうた』と題した心境詩で、その後一貫して自己の心境を詠って、90歳に入ってから『九十の日のうた』へと繋ぎ、ついには『晩年の歌』と題して2020年11月発行の「ふろんていら」67号へ発表している。
歯切れのよい明晰な詠み口で、しかもどれも短い詩ばかりだ。初参加から絶筆までのおおよそ10年の間にほぼ60篇の詩を発表している。決して少なくはない数だ。いくつかここに並べてみよう。(カッコ内の数字は「ふろんていら」の発行ナンバー)
八十の日のうた(30号)
チヨコという名を
今まで何千回と呼んだだろう
これは 僕の
伴侶の
名。
これからも
何年呼びつゞけることになる
のだろう
チヨコ と
声 細る日まで――。
二千十年七月廿二日
ダイヤ婚の日に。
八十の日のうた(42号)
朝ごと 鏡にうつす
自分の顔の
どこを探しても
やさしさがない
あたたかさがない
きらめきがない――
か といって
無表情というわけでもない
何処となく
すべてを押し沈めている面差
しだ。
寒風に立っている雑木のよう
な――。
九十の日のうた(50号)
われ、かつて
土にねて
行末をおもひ泣きし日ありき。
われ、かつて
野に馬をはせ
口笛をふきし日ありき。
われ、かつて
新しき世を希み
こころ燃やせし日ありき。
われ、いまは
一篇の詩 成れば
安らかにねむらむものを。
九十の日のうた(52号)
夫婦だから
どちらかが送らなければなら
ないのね
何気なくつぶやいた
妻のことばが
身にしみた。
おれを送ってくれる
想いが
あるような気がして
安心した。
九十の日の自画像(54号)
(一)みんな
素通りしてゆくような
なんだか
空っぽの感じなんだ
この日頃
(二)特に
何を深く信ずることもなく
又 疑うこともなく
自分の歩調で歩いて来た。
風景の中の
一つの点景。
九十の日のうた(59号)
皺 多く
たるんで来ているが
妻の笑顔が
美しい と思える日がある。
僕 九十四歳
妻 米寿の八十八
子供達が
祝宴を開く と言う
日も
間近い。
二千二十年五月のうた(65号)
(一)ムンクの
『叫び』の絵を
脳裏に浮かべ
今日も仰ぐ大夕焼け
(二)初めて
マスクをかけて
外出した
二か月ぶりの
青空
これだけは(66号)
いつ
死んでもいゝ
年齢に不足はない
思い残すこともこれとてない
だが
今 世界を覆っている
コロナヴィルスの時期だけは
通り抜けたいものだ。
人生最期の儀式が
寂しいのは
いかん。
晩年のうた(67号)
(一)家の中を
夫婦で ヨタヨタ歩いていま
す。
でも
表情は晴れやかです。
なんの屈託も
ないように
あるがまゝの
日々を
肯い。
(二)来し方の
分岐点に
それぞれ標識を
打ってきた。
最後の
終止符は
今 少し
先に。
○
この最後の作品『晩年のうた』が詩人大浦文雄氏の人生最期の詩となった。
この詩は、発行間際になって、紙片に手書きしたものを子息がスマホで撮影し、私のインターネットに送信してくれたもので、そのあと氏は体調思わしくなく入院された。
そして、「ふろんていら」に載った最後の自作品を見ることもなく逝かれたのだ。絶筆となった〈最後の終止符は 今少し先に〉のフレーズはついに実現しなかったのである。
思うに氏は、社会活動家として七十代まで世のために挺身され、八十代に入って社会の第一線から徐々に退きながら、生来好きであった詩作活動に生きる意味や目的を見出されたようである。
と言っても、詩作に関わる間にいくつかの記念誌の編集に携わったり、自ら率先して地域活動の輪に加わったりしておられたようだが、自己燃焼という観点から言えば、詩作という知的領域こそ、もっとも氏を情熱の世界に駆り立てたものと言えるのではあるまいか。
氏は一つのことに、それがたとえ句読点一つであっても、納得するまで拘りを持ち続けた。誤字ひとつあってもすぐに指摘された。
また、新作を見て欲しいと、早朝スザノの自宅を出て、バスに乗り、郊外電車、メトロ、長距離バスと乗り継いで、私の住む隣接のソロカバ市にあるバスターミナルまで来られ、そこの待合室で作品を拝見するという〝離れ技〟もしばしば。用件が終わるとそのままとんぼ返りで帰途につかれた。往復300キロ近い距離だった。
こういった行動は〝拘り〟と言うよりも、自己に対して決して妥協を許さぬ〝業(ごう)〟と言うべきものであろう。中途半端なままで放置しておくことを決して許さない性(さが)であったゆえとも言える。
ところで氏は、最後の詩『晩年のうた』をインターネットで送信して下さる以前に、別の詩1篇を次号の「ふろんていら」に載せるべく私に郵送しておられた。締切りに間に合わず、67号を発行して数日後に落手したのだが、私への私信も同封されていた。その中で氏は、
《私も伊那さんの誘導に乗って拙詩を発表させてもらっていますが、少し息切れの状態です。あまりにコロナ禍の文章が多いので、しばらく自粛したい、との思いをこめて一篇を送ります。どうぞよろしく》
日付は10月30日。読むもの聞くものすべて、コロナ禍に翻弄されている世にうんざりしておられたようだ。
難聴がひどくなり、心身の衰弱が際立っているのを11月中頃頂いた電話で察していたことだが、詩作への情熱をなお燃やし続けながら、氏は自己の生命の限界を、それとなく予知していたのではないかと今にして思う。
詩『これだけは』の一節〈いつ 死んでもいゝ〉というのは偽りのない心情であったにちがいない。
類稀な人生の開拓者であった氏の冥福を衷心よりお祈りし、これをもって手向けの一筆としたい。
―合掌