「コロナ世界大恐慌」的様相を呈した2020年
「自分が生きている間に、こんなひどいことが起きるなんて想像もできなかった」―パンデミックの間、編集部に電話をくれたたくさんの読者と話をしていて異口同音にこの台詞を聞いた。読者の大半は80代、90代だから、昨年我々はどれだけ特殊な体験をしたかが浮き彫りになる。
「息子たちが外に出してくれない」「ずっと家の中にいて息苦しい」「新聞を読んで、テレビを見て、ご飯食べて、寝るだけの毎日」「友達や孫に会いたい」という声も繰り返し聞いた。
読者が言うとおり、2020年は世界が認める異常な一年だった。2日現在で世界の死者数は182万人。1918年からのスペイン風邪パンデミックでは5千万人から1億人が死んだといわれるから、それに次ぐ死者数になった。経済への打撃や死者数を考えれば、「コロナ世界大恐慌」的な様相を呈した。
実際、日本から年賀状が届かない正月というのは大戦以来だ。調べてみると、1941年8月に母国の雑誌類が届かなくなった。真珠湾攻撃の4カ月前だ。それから郵便再開されるのは1947年3月なので、実に5年半ぶりだった。
今回のコロナ禍においては2020年4月から停止され、未だに日伯間の郵便物の往来は停止されたままだから、10カ月目に入っている。いちいちDHLやFedExなどの国際輸送物流会社に頼まないといけない。
変異種の発生によって再び閉ざされてはいるが、基本的には航空機による往来は戻りつつある方向だ。だが、日本の郵便局サイトには《ブラジル※EMS、航空便及び船便通常の引受けを停止又は一時的に停止しています》(https://www.post.japanpost.jp/cgi-kokusai/country_hikaku.php?cid=31)と書かれている。
米国/日本便を調べて見ると《米国(アメリカ合衆国)※EMS及び一部の航空便の引受けを一時的に停止しています》と「一部停止状態」なっていた。まずはここが完全再開しないと、米国経由が多いであろうブラジル便は難しいだろう。
通常インフルエンザの流行が収まる日本の春、3月頃までには再開してほしいものだ。
「対岸の火事」から「当事者」に
昨年の手帳をひっくり返してみると、コラム子がパンデミック前に、いわゆる「普通のイベント取材」をしたのは、3月14日のブラジル日本都道府県人会連合会主催の「日本祭り主催者シンポ」が最後だった。
その時は全伯から日本祭りの主催者が100人余りも集まって、こんなに盛大になってきた、こんな工夫をしている、こんな取り組みを始めたなどの発表が次々に行われ、さぞや2020年も毎月、日本祭りが各地で開催されるに違いないという雰囲気だった。
当時の山田康夫県連会長と「来週のふるさと巡りは大丈夫ですかね。もしかしたら急きょ延期もありえますね。そうなると、日本祭りも怪しくなりますね」との会話を交わしたのを覚えている。
当日はマスクをしてメトロに乗って会場に向かったが、他の乗客に異様なものを見るような目つきでジロジロと見られた。会場に着いたら日系医療機関の役員がいたので、その体験を話したら「マスクではウイルスは防げない。私はマスクの効用に疑問を持っている。日本では皆さんマスクをするようだが、ブラジルでは疑問を呈する医療関係者は多い」と反論がされ、驚いた記憶がある。
2月25日にサンパウロ州で最初のコロナ患者が確認され、ちょっとずつ増え始めていた。その時点でのブラジルの感染者数はまだ291人で、クルーズ船から大量に感染者が出ていた日本より少ないぐらいだった。どこかで「対岸の火事」だと思っていた。
緊張度が一気に高まったのは、3月17日に聖州で最初のコロナ患者の死亡が確認されてからだ。死者が出ること自体は「時間の問題」と見ていたから、個人的に特に驚きはなかったが、ブラジル社会の緊迫度が一気に上がったのに驚いた。
マンデッタ保健相(当時)が3月20日に記者会見で「サンパウロ州は来週から10日後(3月30日)にかけて激増期に入る」と当時のイタリアにたとえ、「あと30日ぐらい医療機関は持ちこたえる。だが4月末までに崩壊するだろう」と言い切った。
その大臣発言を受け、翌21日、サンパウロ州のドリア州知事は「24日から15日間、外出自粛要請を行う。我が州は2月から準備してきた。医療崩壊などしない」と宣言した。県連ふるさと巡りは案の定、急きょ延期となった。
この3月17日はブラジルの分水嶺だった。パンデミックが、急にドタドタと足音を立てて駆け寄ってきた感じだった。それまでの「対岸の火事」気分が一気に「当事者」になり、まるで恐怖心に心を奪われたパニックのような状態になった。5月から毎日1千人前後が亡くなる状態が3カ月間も続き、9月頃から徐々に小康状態に向かう中で選挙を迎え、その後、第2波が発生して現在に至る。
前代未聞だった日系社会の全停止状態
3月24日からの聖州の外出自粛要請に伴って、本紙印刷版も同25日付から中止され、デジタル版(サイト記事とPDF版)だけになった。せめてインターネットをやっている購読者には読んでもらおうと考え、急きょ有料サイト記事とPDF版を無料開放した。それに加えて、メールでPDF版を無料配信も始めた。「緊急事態だからこそ、コロナに関する正確な情報を読者に提供する役割があるはずだ」との考えからだ。
全てのイベントが煙のように消え、取材日程がキャンセルされ、現場取材が一切なくなった。だから3月2週目まで真っ黒に染まっていた手帳のページが、4月分、5月分はほぼ真っ白になっている。1992年から始まった邦字紙記者人生の中で、手帳が真っ白なんて始めてだ。
3月24日から本紙では会計や購読部は出社しなくなったため、それに関する読者からの問い合わせや苦情などが受けられなくなった。
ブラジル社会面の翻訳記者は自宅勤務に切り替え、疑わしい症状を見せた日系社会面の記者も自宅勤務に切り替えた。インターネット上にデータ置き場(クラウド)を作り、そこに書いた記事や写真をおいて共有する体制をつくった。
ただし、体調が良好な日系社会面記者と、紙面レイアウトをする制作部員だけは出社勤務を続けた。だが、4月などは通りに人が極端に少なく、新聞社のビル横にある高架橋の下を通る高速道路ラジアル・レステ・オエステも、車がポツン、ポツンとしか通らない異常な状態だった。
サンパウロ日伯援護協会やサンタクルス病院のような医療・福祉団体をのぞいて、あらゆる日系団体、ジャパン・ハウス、地方文協、県人会、日本語学校、生け花、日本舞踊、日系レストランが完全停止した。日系社会始まって以来の前代未聞の状態だ。
この4月頃は、正直言って「印刷版は復活できるのだろうか。このままデジタル版だけになるかも」という不安を抱えたまま、毎日新聞を作り続けていた。
5月の終わり頃、突然、社長から電話があり、「6月から印刷版を復活させよう」と聞いていたときには、耳を疑ったぐらいだった。
反攻に転じた「日本移民の日」オンライン開催
5月にはブラジル日系社会最大のイベント県連「日本祭り」、そして七夕祭りも延期が発表され、「実際のイベントは数カ月はムリ」というのが常識になった。
だが6月18日に「日本移民の日法要」、20日には「国際日系デー」が、日系社会としては初めてのオンライン行事として開催された。「国際日系デー」では4万3400回視聴を記録した。日系人は「オンラインでもいいからイベントをやってくれ」と要望していることが分った。
この「日本移民の日」を境に流れが変わってきた感じがする。それまで、パンデミックに対してどう対処したら良いか分らず、受け身になっていた。それが「できる形に変えて、イベントをやろう」という気分になった。
特筆すべきはモジ文協が6月27日という早い段階で、第1回「ドライブスルーすき焼き祭り」を開催していた点だ。この時点で230セットを販売。ドライブスルーやデリバリーを使ったイベントの先駆けといえる。8月8日には早々と第2回も実施した。
6月から立て続けにオンラインイベントが開催されるようになり、だんだんと勢いが戻ってきた。12月12日の文協評議員会の報告では、これ以来約50回のオンラインイベントを開催したと報告されていたから、ほぼ毎週1回のペースだ。文協だけでこれだけやっていたのだから、その他の団体を含めれば、けっこうな数の日系オンライン行事があった。
県人会の中でも突出した活動をしていたのが、高知県人会(片山アルナルド会長)だ。
一つ目のイベントは7月25日に「ドライブスルーフェイジョアーダ祭り」、二つ目のは10月3日には「パエリア祭り」、三つ目のは「第9回土佐祭り」を11月22日にユーチューブ上のライブ公演、さらに12月12日に実際の会場イベントとして開催した。
この困難な時期に、果敢にイベントに取り組んだ高知県人会の覇気には心底感服する。
「海外日系人大会」の代替えで開催されたオンラインフォーラム2020「コロナの時代を乗り越える世界の日系人」の中で、ブラジル日本文化福祉協会の石川レナト会長は、「新しい日常への代替え策は、デジタル技術の導入。日系団体で活動を続けられているところは、デジタル技術に強い青年層がいるところ。文協もすぐに活動をデジタル化し、会議もイベントもオンラインにした」と報告していたが、その通りだった。
残酷な言い方をすればオンライン化できなかったところは取り残された。今の自粛状態がさらに長引くようだと、生き残れない可能性がある。だが、生き残ったところを中心に「パンデミック後の新日系社会」を作り直すしかない。
パンデミック後の日系社会は、もっと若者が主導権を握り、オンラインなどの技術を駆使し、ブラジル国内の距離的な枠にとらわれない活動をすることになるだろう。
邦字紙はデジタル版としての生き残りを模索
その中で「どうやったら、邦字紙が生き残れるのか」という問題もある。「新しい役割を見つけて拡大することで、新しい市場を開拓する」という原点に立ち返ることになるだろう。
経営の詳細は不明だが、すでに印刷版の新聞だけでは採算がとれない可能性がある。このままでは遠くないどこかの時点で、印刷版を発行できなくなる可能性がある。10年、20年前から言われてきたことだが、今までギリギリ延命してきた。だがパンデミックを受けて、印刷版は瀬戸際に追い詰められている。
ただし、デジタル版(Web版、PDF版)はパンデミックの間に読者を増やした。配達遅延がなく、毎日確実に配信されるデジタル版は、今の時代に適応した発行形態だと証明された。これはコンピューターを持っていなくても、タブレットやセルラーがあれば読める。
ブラジルの現在の郵便事情の中で、印刷版の配送コストはすでに購読料金に近い金額になっているようだ。
たとえ印刷版が難しくなっても、デジタル版を続けることで「邦字紙の火」を絶やさないようにするのが現実的な対応だ。それを見込んで、印刷版はできる限り出し続けるが、デジタル版で必要な最低限の人材を確保し続ける対策が要だ。そのような対策が実行できれば、「邦字紙の火」は残せるかもしれない。
パンデミックによる悪影響で2020年は経済的に最悪の年だった。だがそれだけに、21年は「V字回復の年」「リセット(セットし直し、やり直し)の年」だと言われる。そのリセットが日系社会にも行われるだろうし、コミュニティペーパーの役割もおそらくリセットされる。
在日ブラジル人の存在が見直される?
拙著『移民と日本人 ブラジル移民110年の歴史から』(無明舎、2019年)で詳しく書いたが、日本国内でも今後、外国人労働者の存在が大きくなるに従い、海外日系人という存在も見直される可能性がある。「海外日系人」は「外国人になった日本人とその子孫」の集まりであり、「日本国内の外国人」とは「対」、もしくは「対極」にある存在だ。
「外国人になった日本人が何を考え、何をやったか」を理解することが、日本国内の外国人の行動や考え方を理解する一番の早道だと、いずれ多くの日本国民が理解するのではないかと期待する。
昨年末29日にNHK・BS1で有名俳優が主演する「ワタシたちはガイジンじゃない!」が放送されたのも、そんな流れのような気がする。
1990年に入管法が改正されてから丸30年が経ち、夢を抱いて青年期に訪日した日系ブラジル人が高齢期に入った。そんな彼らの人生を、映画「GO」やNHK朝ドラ「あまちゃん」を手掛けた有名脚本家の宮藤官九朗による書き下ろしで、「日本における一人芝居の第一人者」のイッセー尾形が一人芝居にした。
残念ながら今のところブラジルでは見れないので、詳細は分らないが、昨年盛大に祝うはずだった「在日ブラジル人コミュニティ30周年」にふさわしい作品であると思いたい。
今後、世界の日系人の中で最大の数を誇るブラジル日系社会は、時間と共にその歴史や今の活動に、日本から関心が集まる可能性がある。関心が集まれば、それを報道する邦字紙にも需要は高まる。ただし、ブラジル国内の読者ではなく、日本の読者にブラジルや日系社会を伝える媒体になる。であれば、それはデジタル版を中心とした形になる。
21年はブラジルと日本の関係もリセットされるかもしれない。そして22年は「ブラジル独立200周年」。そこに向けて何かを仕込む、準備するには今年しかない。
何年かかろうが、パンデミックはいずれ収束する。個人の生活のレベルでも、当面、感染には最大限の注意を払いつつ、「緊急事態」の状態から少しずつ「以前の日常」を取り戻すしかない。
個人、企業、団体、日系社会、日伯関係など様々なレベルでのリセットが起きている。具体的にどうそれが定着していくのか。そんなことが問われる新年の前半になりそうだ。(深)