年明け早々の7日、ブラジルでのコロナ死者が20万人の大台を超えた。コラム子が生まれ育った静岡県沼津市の人口がちょうど約19・5万人。それが消滅したぐらいのインパクトだ。
このパンデミック生活の中で西洋社会的な風潮、「Combater(撲滅する、打ち勝つ)」「Guerra Contra Virus(対ウイルス戦争)」などの言葉を見るたびに違和感を受けてきた。
ウイルスは「戦うべき相手」でも「排除すべきもの」でもないと思う。コラム子は昨年4月21日付《樹海拡大版=ウイルスと戦うのでなく、共生する生き方》(https://www.nikkeyshimbun.jp/2020/200421-column.html)の中で、《ウイルスも自然現象の一部であり、それを「撲滅するまで戦う」という考え方自体に、天にツバするような部分を感じる。
力こぶを作って相手を脅し、「お前を殺すまで徹底的に戦う」と脅し上げるよりも、どこかで折り合いをつけて、少々居心地の悪い思いを我慢しながら「気を付けて一緒に暮らす」=「共生する」という心構えの方が自然な感じがする》と書いた。
今もまったく同じ気持ちだ。昨年末からワクチン接種が始まったが、それに競うように変異種が次々に発見されている。別のウイルス襲来もいずれ時間の問題と言われている。つまりワクチン接種はパンデミックのゴールではない。もっと根本的なところから、コロナ禍への対処を考えるべきではないか。
パンデミックは自然界からの逆襲
新型コロナウイルスが自然発生したのであれば、そこには生まれるべくして生まれた「自然の摂理」があったのではないか。
自然の摂理が働いているなら、地震や台風などと同じように自然災害だ。誰も「地震と戦う」とは言わない。「台風を撲滅する」とも言わない。被害を最小化する最大限の準備をして、やり過ごすしかない。
FORBES JAPAN電子版20年5月27日付《コロナ危機は「自然界の逆襲」人類がグローバル依存から脱却すべき理由》(https://forbesjapan.com/articles/detail/34716/1/1/1)で、生物多様性の専門家、国立環境研究所の生物学者・五箇公一氏が興味深い考察を述べている。
いわく《冷静に考えてみれば、彼ら(ウイルス)は人間が地球上に登場する何億年も前から生態系のなかで生き続けており、野生動物とともに進化を繰り返してきました。それは彼らにも自然界における存在意義がちゃんとあるからなんですね。
生態系では、すべての種が資源の取り分に合わせて決まった数の範囲内で生きています。ある種の集団がそのセオリーから外れて増えすぎると、ウイルスはその集団に取り付いて感染症をもたらし、数を減らす「天敵」としての役割を果たしてきたと考えられます。生態系ピラミッドの安定性を保つ「監視役」とも呼べるでしょう。
かたや人間はというと、今や77億にも達しようという膨大な数で繁殖を遂げています。しかも地球上のエネルギーを無駄に消費し、大量のゴミの排出を繰り返している。生態系は人間にエネルギーを一方的に奪われている状況が続き、それを制御する自然界のシステムとして、新興感染症ウイルスがいま、人間社会でパンデミックを引き起こしているわけです。
新型コロナウイルスを含む新興感染症は、まさに人間に対する「自然界の逆襲」と捉えるべき事態です》
ウイルスが「自然界の逆襲」であるならば、それに対抗してワクチンを作って死者を減らし、ますます人口を増やそうとする人類は、自然の摂理に逆行している。
今回はワクチンで抑え込めたとしても、「人類の人口減少を求める」のが自然の摂理であるなら、何度でも降りかかってくるだろうし、より強力なものが出現する。
「パンデミックで惨劇が起きている」と思うことは簡単だが、その事実を、自然の側から理解するとどうなるかという見方があっていい。
次のパンデミック震源地はアマゾンかも
五箇公一氏は《流行の背景にあるのは、人間による野生動物の世界の撹乱です。アフリカ、中南米、中国の奥地など未開の地において、土地開発や農耕地の拡大による自然破壊、動物の乱獲、密猟、売買などが繰り返されることによって、自然界に埋もれていたウイルスと人間が接触するチャンスが必然的に増えてしまいました》と続ける。ならばアマゾンの熱帯雨林開発は、まさに次のパンデミック発生地になる可能性がある。
KADOKAWA文芸Webマガジン20年2月20日付《新型コロナウイルスはなぜ発生したのか、いつ収まるのか『感染症の世界史』著者、石弘之さんインタビュー》(https://kadobun.jp/feature/interview/9yhcdzonav40.html)の中で、石さんは《ウイルスの唯一の目的は「子孫を残すこと」につきます。地上最強の地位に上り詰めた人類にとって、唯一の天敵が病原性の微生物です。約20万年前にアフリカで誕生した私たちの祖先は、数多くの病原体と戦いながら地球のすみずみに広がっていきましたが、とくにウイルスは強敵でした。知られないままに、多くの地域集団が全滅させられたことでしょう。人類の歴史は20万年ですが、微生物は40億年を生き抜いてきた強者です》と冷静に分析する。
微生物との戦いは《これまで1勝9敗ぐらいでヒト側の負けが込んでいるのですよ。勝ったのは1977年以来発病者が出ていない天然痘と、ほぼ根絶寸前まで追い込んだポリオぐらいでしょう》とほぼ勝てない戦いと見ている。
自然を破壊し、今まで接触がなかった野生生物と人間に接点が生まれたことから、新種のウイルスが持ち込まれた。人が自分でそれを進めている。「ワクチンを作ってウイルスが押さえ込めたから、もう大丈夫」とばかりに、さらに自然破壊を進める愚を避けるコトは今、最も大事なことではないか。
ロックダウンすべきは自然環境では?
西洋文明の中では、自然を「敵」とか「利用する対象」「制覇すべき相手」ととらえがちだ。だが日本的観念からすれば、自然はあらゆるものの摂理そのものであり、人間はその一部でしかない。地球環境や自然は、たかが人間が「保護」する対象ではない。人間が自然より上であるかのように考える不遜な発想自体に強い違和感を覚える。
前述の五箇公一氏の記事には次の記述もある。
《人間って生物学上では本来すごく弱い生き物です。弱いからこそ集まってコミュニティをつくって野生生物たちとの闘いに勝って、生き残ることができた。その過程で他の生物種が持たないヒューマニティという人間特有の性質を進化させた。血の繋がりのない他者も助けるという利他性こそが人間の武器であるのに、社会が肥大化し、物質的な豊かさが増すにつれ、自我や個人的欲求を優先させてしまうという利己性が利他性に勝るようになってしまった。
これからは「自然共生社会」の本質を見つめ直し、人はこれ以上野生生物の世界に立ち入ってはいけないことを改めて認識すべきです。かつての共生関係を保ってきた人間社会と自然界の間のゾーニング(領域の線引き)を取り戻すことが必要なのです。世界全体が独占主義的な考え方を捨て、自然共生を図り、持続的な社会構造へとパラダイムシフト(時代の支配的考えが劇的に変化すること)をすることが求められます》と書かれている。
ロックダウン(閉鎖)すべきは人間が住んでいる都市ではなく、野生動物がいる自然環境の方だ。人間が入らないように厳密に管理し、自然と棲み分けをすることが、本来なら今もっとも議論されるべきパンデミック対策のテーマではないか。
パンデミックから何かを学ぶのであれば、自然をねじ伏せる方法に大金をつぎ込むのではなく、人間の方が自然の摂理を理解し、生活を合わせる術を身につけることだと思う。
コロナと共に生きる日本
東洋経済オンライン20年12月20日付《フランス人が日本に戻って心底感じた「自由」》(https://toyokeizai.net/articles/-/397366)というコラムを読んだ。日本永住組のフランス人女性が書いたものだ。
昨年3月にフランスに一時帰国したらパンデミックが始まって日本に戻れなくなり、祖国がどんどん経済活動をストップさせて不自由になっていく様子に辟易としていたが、日本に戻ったら、かなり日常に近い自由な生活が続けられていることに感動した様子が綴られている。
いわく《フランス政府の新型コロナウイルスへの対応は、あらゆるレベルで最初から悲劇的なものだったと私は思っています。エマニュエル・マクロン大統領は、連日ように、まるで王様のように国民に話しかけます。私たちが小さな子どもであるかのように。彼は非常に厳しいアナウンスをし、それから首相や関係大臣を登場させ、これから起こることを詳しく説明させます。何がもう「許されない」のか、何が閉鎖されるのか、何が中止されるのか……。
今やフランスはひどい官僚主義と中央集権、そして国民の政府への信頼性の欠如により、恐怖に基づいたシステムができてしまいました。国民を守る代わりに、国民を脅し、「規則」を守らなければ罰を与えられる。何とも気が滅入ってしまう話です》
これを読んでコラム子には、ドリア聖州知事の物言いが頭に浮かんだ。だが有り難いことに、当地には厳罰はない。
《日本では、賛否両論があるものの、「GoTo」キャンペーンが実施され、多くのお店がオープンし、人々は今までとほぼ同じように仕事をし、子どもたちは公園で遊び、サッカーの試合を観戦しています。日本に帰ってきて日本の「エネルギー」に大きな感銘を受けました》
さらに、次の一節を読んで膝を叩いた。
《私から見ると、日本人のこうした態度はコロナと「共に(with)」(あるいはコロナ「後に(post)」)生きるというもので、コロナに「対抗する」というものではありません。ヨーロッパでは、ウイルスと「闘う(fight)」や「戦争(war)」という言葉が使われています。これは神道や仏教の影響かもしれません。人間は自然の一部であり、欧米人のように自然は戦う相手ではないのです》
最後に《フランス人にとって最も重要な原則は「liberté」(自由)だと思ってきました。それなのに今のフランスには自由がなく、人々は罰を恐れるようになってしまいました。今回日本に到着したときに感じたこの信じられないほどの開放感と安堵感を私はこれから先も忘れることはないでしょう。自己隔離中でさえ、フランスに比べれば天国だったのですから……》と締めくくる。
やはり、日本という国の風土には自然崇拝が根付いていると痛感した。
子供が高齢者の犠牲になる構図は正しいのか
エスタード紙元旦号の1面には《パンデミックは10年分の未来をむさぼる》との大見出しが躍った。新年早々に恐ろしい記事を出すものだと恐れ入った。《他の危機の時と同様、今回の激変期も何らかの烙印を残す。それは「戦時予算」の執行により、国庫の赤字額を大幅に膨らませたことだ。専門家の分析によれば、財政赤字のダメージを回復させるには10年かかる》とある。
パンデミックを抑えるために外出自粛要請をして経済を止め、緊急支援金のために未曾有の国債を増発した。同時に、同居する高齢者に感染を拡大する危険があるとして、学校を休校にして子供から教育の機会を奪ってしまった。幼年期や思春期という、人生のうちで最も大事な1年間を、家の中で漠然と過ごした子供たちの教育機会喪失を取り戻すには、この先どのくらいかかるだろうか。
企業救済や経済を底支えするという名目で、世界の中央銀行は株を買いあさり、大不況のまっただ中なのに株価や国債は異常な上昇を続けている。
何か不自然の上に、不自然を塗り固めているような気がしてならない。
ムリを承知で、ごく単純化して言えば、感染したら死ぬ確率が高い高齢者を守るためにロックダウンをしている。現役時代に立派な役職をやってきた高齢者も多いだろうし、政治家にも顔が利く。高齢者は子供より「声が大きい」。
その結果「声の小さい」子供が犠牲になった。高齢者を守るために、子供など未来の世代を犠牲にするという構図だ。これでいいか―。
高齢者は「長い人生を生き抜いてきたツワモノたち」だ。苦難の人生を生き抜いてきた人が現在の高齢者だ。高齢者を守るために、子供や若者から未来を奪うのは、自然界の法則からすれば不自然ではないだろうか。もっと自然の摂理に沿った対策ができないのか。
エスタード紙20年12月29日付の1面には《コロナは平均寿命を2年縮める可能性がある》との衝撃的な大見出しが躍っていた。それが高齢者を中心とした20万人が死ぬという意味なのだと背筋が寒くなった。
《1940年以来、初めて平均寿命の期待値を下げる可能性がでてきた。それは政府が有効なワクチンの接種ができるかどうかにかかっている。もし効率的にそれが実行されない場合、2年短くなる。今までは歴史的に3年間で1年分の余命を伸ばし続けてきた。今は1年の余命を伸ばすために6年かかる可能性が出てきた》とある。
本来6年間あれば2年分の余命を伸ばせるところが1年だけ。加えて若年層の死者数が増えるという最悪のケースになれば、余命を伸ばすのにもっと時間がかかるという。それを「1年以上、最悪2年の寿命が縮む」と表現している。
当たり前だが「高齢者は死んでも良い」と言っている訳ではない。高齢者はきっちりと自衛をするしかないが、子供より経験と知恵があるはずだ。弊紙の読者はしっかり自衛をしてきたから生き残っている。今まで通りのことをやれば、これからも問題ないはずだ。
十分な感染拡大防止策を取ったとしても経済を動かすと、高齢者や病気持ちの人を中心としたある程度の層が亡くなる。できるだけ拡大防止策に努めながら、それやり過ごすことが、自然の摂理にはかなっているかもしれない。とにかく健康の自己管理に気を付けるしかない。
「長生き」だから「充実した人生」ではない。人間にとっての居心地の良さや贅沢さ、長寿を重んじて、ひたすら環境を改変して資源をむさぼる今の文明の在り方に対して、自然の摂理が異議を唱えているのが、パンデミックなのかもしれない。
自然環境を破壊する人類の数を減らすために、自然の摂理としてパンデミックが繰り返し起きるのであれば、自然環境を破壊しすぎない節度を国際ルールとして作り、世界の人口が増えすぎないように抑制する何らかの世界的システムを考えるのが、本来の根本的な対策ではないか。
科学技術の進歩によって素早くワクチンが開発できるようになっても、対症療法に過ぎない。ワクチン開発する製薬会社には大金を投資するが、根本的な対策である野生動物を人間と棲み分けさせる巨大プロジェクトがあるとは聞かない。昨年来の苦い経験から何を学ぶべきか。(深)