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中島宏著『クリスト・レイ』第108話

 が、アヤが個人的にそのことを批判してみたところで、世の中が変わって行くわけではない。彼女としては、今起きつつあるこの現象を、できるだけ冷静な頭で判断し、その先がどのようなものになって行くのか、それを自分なりに考えてみるしかない。
 幸い、彼女には、マルコスという話し相手がいる。
 通り一遍の世間話で終わるという相手ではなく、結構深いところまでの話ができるという相手である。このような状況の中で、彼のような存在は、アヤにとっては非常に貴重なもののように思えてくる。そして、そのことがこの場合、彼女にとっては大げさでなく、一種の救いのようなものになって行きそうであった。
 そのマルコスも、日本語学校が閉鎖されることによって、勉強の場を失うことにはなったが、しかし実際には、アヤとのデートと会話は途切れることなく続いていくから、日本語の勉強が中断されてしまうという意味は持たなかった。むしろ、今度の社会の急激な変化は、彼にとってさらに日本語のレベルを上げていく方向に向かっていくようでもあった。
 二人の対話は、さらに続いていく。
 ただ、この時期以降は、その時流にあわせて話題は方向転換する。
「何だか、ここのところ急に世間が騒がしくなってきたという感じね。どこでもナショナリズムの話でもちきりだし、戦争の話もいろいろ聞こえてくるし。これからどうなるのでしょうね。
 マルコスはブラジル人だから、それほど感じてないでしょうけど、最近の情勢は、私たちのような外国人には何か不気味な感じを与えるわね。私たち外国人にとって、世界大戦よりもナショナリズムの方がもっと身近だし、切実な問題でもあるわ。現に、日本人移民の間では、こうなったらもう、一刻も早く日本へ帰ったほうがいいという、強硬な意見も出てきているみたいね。
 といって、実際にはそう簡単に帰られるというものでもないけど、こういうときは、論理的なものよりも、情理的なものが物を言うということになるのかしら。ここの隠れキリシタンのグループはまず、日本へ帰るという考えは持っていないけど、上塚植民地の人たちの多くは、日本へ帰るということで浮き足立っているような感じね」
「その気持ちはよく分かる気がしますが、しかし、実際にその人たちがすぐにでも日本へ帰ることができるのですか。つまり、金銭的にそれだけの条件が備わっているのかどうかということですよ。僕の見るところでは、ほとんど誰もそういう条件を満たしている人はいないようですね。となると、気持ちの上では日本へ帰りたくても、現実にそれは不可能ということになるでしょう。その辺に大きな問題がありそうですね」
「そうね、それはまったくその通りだと私も思うわ。ただ、あの人たちにしてみれば、出稼ぎという考えで来ているのだから、その可能性が消えて、しかもこの先、日本人としてこのブラジルで生きていける見通しがなくなっていくとしたら、できるだけ早く日本へ帰ったほうがいいという理屈にはなるでしょうね。でも、それが実際には無理だということが分かっているから余計、そういう願望が大きくなって、あせりばかりが出てくるということになっているのじゃないかしら。冷たいようだけど、そういう焦りの中では、なかなか正しい判断は下せないでしょう」
「その点、アヤたちはどうなるのかな。同じ日本人として、彼らと同じような行動をとるのか、つまり、ブラジルを捨てて一刻も早く日本へ帰るのか、それとも、この国を安住の地と定めてここで生きていくのか、ということだね」
「もちろん、私たちの場合は、あくまでブラジルで生きていくという点に何の迷いもないわ。私たちは、ブラジルにこそ自分たちの未来があるんだというふうに信じているから、ここから逃げるようにして日本に帰るということはあり得ないわね。もちろん、私だってその考えに違いはないし、私の中では、日本へ帰るという選択肢はまるで存在していないといっていいわ。