2001年9月、ニュ-ヨークの世界貿易センタービルに、ハイジャックされた旅客機が突入、その直後、同ビルは跡形もなく崩れ落ちた。その後、全米各所でテロが行われ、多数の死傷者を出した(同時多発テロ)。
犯行はイスラム過激組織アルカイダによるとされた。テロとの戦いを宣言したアメリカは、報復のためにアフガニスタンの拠点を攻撃し、2003年からはイラクに侵攻した(イラク戦争)。
21世紀の日本の進路
米ソ冷戦の終結によって、世界規模の核戦争の危険は遠のいたが、民族や宗教の対立、社会体制の違いに基づく紛争やテロの脅威は、その後もなくなっていない。とくに東アジアでは、共産党が一党支配する国家との冷戦状態が未だに続いており、脅威となっている。
20世紀末から中国が経済的に台頭し、2012年にはGDP(国内総生産)でアメリカに次ぐ世界第2位になったとされる。しかし、同国の国民一人当たりの所得は日本よりはるかに低く、極端な貧富の格差も生まれている。都市の大気や河川の汚染、国土の砂漠化などの環境破壊も深刻である。
中国は軍備拡張を進め、チベットやウイグルなどの支配を強め、周辺海域や海洋への軍事力を背景にした進出を強化している。また、尖閣諸島の領有権を主張し、頻繁に漁船、公船、航空機を日本の領海・領空に侵入させているが、日本は「尖閣は日本固有の領土であり、領土問題は存在しない」との立場をとり、尖閣諸島を守っている。
尖閣諸島は1885年からの調査に基づき、1895年日本政府がどの国にも属していないことを確認し、閣議決定して日本の領土に編入した。そして最盛期には200人以上の日本人がカツオ節製造などのために居住していた。戦後アメリカの施政下にあったが、1972年沖縄返還に伴い日本の領土に戻った。
朝鮮半島は近代日本の国防の拠点であった。北朝鮮では今でも朝鮮労働党と金一族の専制支配の下、核とミサイルの開発を進め、東アジアの不安定要因となっている。北朝鮮は1970年代から多数の日本人を拉致し、自国の体制強化のために利用した。
日本は3度にわたり拉致被害者と家族の一部を帰国させたが、依然として数百名とも言われる日本人同胞が不当に拘束されている。2001年10月、北朝鮮に拉致されていた日本人5名が帰国したが、我が国の国民保護の体制の不備を突いて北朝鮮に拉致された被害者がいまだ多くいる。
竹島は日本固有の領土であるが、韓国は竹島を自国領と主張し、1953年から武装警察官を常駐させて不当な占拠を続けている。竹島では、江戸時代に鳥取藩の人が幕府の許可を得て漁業を行っていた。1905年には、国際法に従って我が国の領土とし、島根県に編入して実効支配を行っていた。
21世紀の日本の進むべき道はどこにあるのだろうか。
2011年3月11日、東日本を襲ったマグニチュード9・0の大地震による巨大な津波に東北・関東地方の太平洋沿岸が飲み込まれ、約2万人が亡くなった。地震と津波による原子力発電所の事故も起こり、多くの人々が避難を強いられた。この災害の中でも肉親の死を乗り越え、冷静沈着に行動した被災者の振る舞いは、世界の人々を驚かせ、賞賛された。
日本周辺における観測史上最大の地震で、震源は南北500km、東西200kmの広範囲にわたるものであった。地震の後に押し寄せた津波は、人と家屋を飲み込み、大きな船まで押し流した。
2006年に改正された教育基本法は「伝統と文化を尊重し、それらを育んできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養う」という教育目標を定めている。日本には古来、美しい田園と麗しい社会を築いてきた豊かな伝統がある。
21世紀を迎えた今、日本人は、自らの歴史に自信と誇りを持ち、優れた日本文化を世界に発信し、人類の平和と発展に貢献していくことが求められている。
《補講》勇気と友情の物語・世界と交流した日本人の記録
トルコの軍艦・エルトゥールル号事件
1890年6月、トルコ(オスマン帝国)の軍艦エルトゥールル号で、650人の親善使節が横浜に到着しました。日本ではこの年、初めて帝国議会が開かれた年で、同じように近代国家をめざしていたトルコは、日本との友好を強く望んでいました。
明治天皇始め各界の熱烈な歓迎を受け、9月に帰国の途につきました。神戸に向かう途中で台風に遭い、和歌山県串本町大島の樫野崎沖で難破、沈没してしまいました。587人が犠牲になる大惨事で、深夜、岸に打ち上げられた人々は、灯台にたどり着き、助けを求めました。灯台守は万国信号の本を広げ、三日月と星の国旗を決め手にトルコ人であることを知りました。
大島には400戸の島民が住んでいました。気の毒な異国の遭難者を救おうとして献身的に働きました。男たちは海で遭難者を探し、冷たくなりかけた負傷者には裸になって自分の体温で体を温め、命のともし火を甦らせました。女たちは負傷者の介護や食事の世話に不眠不休で奔走しました。島民たちは非常食用の鶏など、持てるもの全てを提供しました。
事件が新聞で報じられると、日本中から2500万円に相当する義捐金が集まりました。生存者69名は、神戸の病院で手厚い治療を受け、元気を回復して日本の軍艦「金剛」「比叡」に乗って帰国しました。
明治天皇は島民の立派な行いを賞賛し、それまで救援活動にかかった費用を申し出ることを求めました。島民は「当たり前のことをしただけ」といってきっぱり断りました。明治の日本人の心意気を示す出来事でした。
95年後の1985年3月、イラン・イラク戦争のさなか、イラクのフセイン大統領は、
「今から48時間後以降は、イランの上空の全ての飛行機は無差別に打ち落とす」と発表しました。他の国の人々は自国から派遣された特別機で次々と脱出しましたが、日本人とその家族は、テヘラン空港に取り残されてしまいました。
時間切れが間近になった時、2機の飛行機が突然やってきて、空港に降り立ちました。日本人救出の為の特別機でした。215人の日本人は、警告期限のわずか2時間まえに、無事出発することが出来ました。
飛行機は、トルコ政府が、エルトゥールル号事件の恩返しのために派遣した救援機だったのです。事件から95年も経っているのに、トルコの人々は、明治の日本人が示した真心と献身への感謝を忘れていなかったのです。
台湾に巨大ダムを作った八田與一(はったよいち)
台湾の嘉南平野は、台湾の全耕地面積の1/6を占める広さです。雨期には洪水が起き、乾期には水不足に悩まされる、不毛の大地でした。
石川県に生まれ、東京大学で土木技術を学んで、台湾総督府に赴任した八田與一は、現地を調査して工事計画を提出しました。それは嘉南平野の上流の川をせき止めダムを造る、安定して水を供給する灌漑施設を作る計画でした。
工事は困難を極めました。ある日のこと石油ガスの爆発がおこり、50人余りが死亡する大惨事になりました。八田は、「もう私の言うことを聞いてくれる人はいないだろう」と嘆きましたが、台湾の人たちは「事故はあんたのせいじゃない。おれたちの為、台湾のために、皆で命がけで働いているのだ」と逆に八田を励ましました。
1930年、10年がかりの世紀の大事業が完成し、嘉南平野は緑の大地に生まれ変わりました。アメリカの土木学会は、「八田ダム」と名づけ、世界にその偉業を紹介しました。台湾の現地の人々は、今でも八田の命日にはお墓の前で、墓前祭を毎年行っています。
《補講》戦争と全体主義の犠牲者
20世紀は、「戦争と革命の時代」でした。人類はこの100年の間に、2度の世界大戦とロシア革命を始めとする多数の革命を経験しました。この世紀ほど夥しい人命が失われた時代はありませんでした。
第1次大戦では1千万人の戦死者を出し、第2次大戦では2500万人の規模になった上、多数の民間人も犠牲になりました。ナチスドイツはユダヤ人の大量殺戮を行ないました。ナチズムの犠牲者を2500万人とする説もあります。
ソ連の共産革命による一党独裁のスターリン支配下で「富農撲滅」の名の下で、多数の無実の農民が処刑され、あるいは餓死させられました。更に共産主義を受け入れない人は政治犯として強制収容所に送られました。
中国の文化大革命による犠牲者などを合わせると20世紀中における共産主義の犠牲者数は1億人に近いと言われています。
20世紀は、ファシズムと共産主義の二つの全体主義の犠牲者が、2つの世界大戦の死者数をはるかに上回り、戦争よりも多くの血が流れた世紀と考えられています。
米ソの冷戦が終了したとはいえ、東アジアではまだ冷戦の名残りがあり、世界各地で民族や宗教の対立に根ざす争いごとはなくなっていません。21世紀は、20世紀の人類が犯した過ちを繰り返してはなりません。
《補講》 東日本大震災と日本人
2011年3月11日、東日本は大震災と津波に襲われ、その上に原子力発電所の放射能漏れという大災害に見舞われました。そのような緊急事態の中で、日本人被災者の冷静、沈着な行動は、外国の人々の感嘆と賞賛の的となりました。
アメリカの新聞ニューヨーク・タイムズは、「日本人はこうした状況下で、米国のように略奪や暴動を起こさず、互いに助け合うことは全世界でも少ない独特の国民性であり社会の強固さだ」と評しました。韓国のメディアも、被災地の住民が「お先にどうぞ」「いえ、私は大丈夫です」と声を掛け合い、譲り合いの精神を忘れずに対応していたと賞賛する現地ルポを伝えました。
このような大災害に際して、自己犠牲の精神で非常事態に対処した日本人がいました。宮城県南三陸町の職員で危機管理課に勤めていた遠藤未希さん(24才)は、津波が迫る中、防災無線で「6mの津波が来ています。早く逃げてください」と住人に避難を呼びかけ続け、自分自身は津波にのみ込まれて亡くなりました。この女性の母親や多くの住民が、彼女の呼びかけによって命を救われました。災害出動した自衛隊員や警察官の献身的な働きも特筆すべきものでした。
天皇陛下は、地震発生5日目には国民宛にメッセージを出され、次のように述べられました。「自衛隊、警察、消防、海上保安庁をはじめとする国や地方自治体の人々、諸外国から救援のため来日した人々、国内の様々な救援組織に属する人々が、余震の続く危険な状況の中で、日夜救援活動を進めている努力に感謝し、その労を深くねぎらいたく思います」
こうした日本人の行動は、長い長い歴史の中から生まれ育った日本人独特のものであります。「日本社会に根づく義務感、逆境での品位、謙虚さ、寛容、勇気」(スペイン)、「無私の心と不動の献身」(アメリカ)、「武士道精神」(台湾)など、各国は日本人の国民性を高く評価しました。
日本人が持つ国民性は、日本の長い歴史の中で育まれてきた文化です。日本人は縄文時代以来、豊かな自然の恵みのもとで温和な性格を備え、和を大切にし、助け合いと支え合いの文化を作り上げてきたと言われています。こうした歴史の蓄積を失わずに受け継いでいくことを、私たちは心に誓いたいものです。
(終わり)
《この内容は本として出版され、無料配布されたもの。著者の徳力さん連絡先keizo.tokuriki@gmail.com 電話=11・3981・1648まで》