「あらあら一生だなんて、随分大げさなことになったわね。それほどの価値は私にはありませんから、その辺りは誤解のないように願います。でも、それを言うなら、マルコス、あなただって私にとっては立派な先生ですよ」
「僕が、アヤの先生ですか。それはちょっと信じられない話ですね。僕がアヤから学んだことはいっぱいありますが、僕がアヤに教えたことって何もありませんよ」
「ところが、それが大ありなの。私がマルコスから教えられたことは、ブラジル人の持つ考え方というものね。日本人にはない考え方、それを私はあなたから沢山学んだわ。あなたにとっては当たり前のことであっても、私にとってはブラジル式の考え方というのは、やはり日本人のものとは違っているから、そこに新鮮な発見といったようなものがあったし、なるほど、こういう考え方もあるのだということに気付かされて、とてもいい経験になったわ。
こういうことって、学校で学ぶということとは別の意味ですごくいい勉強になってるわね。もし、これが学校だったら、私はマルコスにかなり高い授業料を払わなくてはならないでしょうね。そういう意味でも、あなたは立派な私の先生です」
「これは驚いた。そんなふうに見られていたとは、まったく考えていませんでした。何気なく喋っていた僕の言動が、アヤにとっては勉強になっていたなんて、ちょっと信じられない気もするけど、でもそれって、僕にとってはすごく名誉なことでもあるわけですね。アヤ先生の先生か。ふうん、そうするとこの僕は、かなり偉い人でもあるわけだ」
「威張るのはまだ早すぎます。だって、このアヤ先生が大したレベルでもないから、その先生といったって、たかが知れてますよ。先生でもいろいろなレベルがありますからね。マルコス先生はまあ、フツーのレベルといったところかしら」
「世間の物差しはともかく、僕にとってアヤはかなり尊敬できるレベルの高い先生ですからね、その人の先生ともなれば、これはもう特別な存在ということになりますよ」
「それは、あなたが勝手に考えることでしょうけど、現実を見失うと痛い目に会いますからね。世の中、そんなに甘くもないし、簡単なものでもないわ」
「こう見えても僕だって、そんなに世間知らずということでもありませんよ。ちゃんとその辺りのことは理解しているつもりです。大丈夫ですよ、現実が見えなくなって頭でっかちになってしまう心配はありません。その点は、アヤ先生をずっと見てきましたから間違いありません」
「まあ、マルコスは意外と調子いいところもあるのね。私に甘い言葉で取り入っても、何の見返りもないわよ。あまり得になるとはいえませんね」
「損得で話をするようになったら、こういう交際は長くは続きませんよ。僕は、損だとか得だとかを考えてアヤと付き合ってるわけじゃありませんから、そういう心配をしていただく必要はありません。でも、こうやってアヤと話してると、とても気分が明るくなって楽しくなってくるから不思議ですね。今の世間の状況を見ていると決して楽観できないですけどね、特にあなたたち、日本人移民にとってはね」
「そうね、人によっては、ずいぶん深刻になっている所もあるようね。私たちの仲間はそうでもないけど、上塚植民地全体では、結構動揺している人たちがいて、毎日のように日本へ帰ることを話し合っているみたいね。でも、現実の問題としてそれが簡単にできないということも分かっているから、そこにあの人たちの大きな悩みがあるみたいね」