「どうして親たちはブラジルなんかに来たんだろうね。わざわざこんな後進国に」―― サンパウロ州立高校に通う同級生、韓国系二世のキム・サブリナさん(18)と日系二世の大浦聡一郎さん(17)が共に抱く両親への率直な思いである。
「それでいて、ブラジルの文句を言う親の心理がよく分からないよね」と二人は半ば呆れたように言う。
現在の子育て世代のブラジル在住日本人、韓国人には反論の余地のない、当地生まれティーエイジャーの純粋かつ率直な指摘である。
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韓国人も日本人も、それぞれの本国と比べ、今のブラジルに対する大まかな感じ方には大差ない時代とも言える。
サブリナさんの母親キム・ジンヒさん(49、ソウル生まれ)は、16歳まで韓国のインチョン(仁川)で育った。
「子どもの時はそれが普通だと思って何も感じませんでしたが、今思えば韓国の経済状況は決して良くなかったですね」
ジンヒさんの育った時代の韓国経済は決して良くなく、大企業のサラリーマンだった父親はある日突然会社を辞めなければならなくなり、一家は途方に暮れることになった。
失業した父親は、既にブラジルに移民していた実の姉を頼ってブラジルに行くことを決意した。1986年、ジンヒさんは9年生を修了しようかという時期だった。
「当時の韓国にはあまり外国人もおらず、ブラジルの事も100%未知の世界でした。どこへ行くのかという不安もありましたが、子どもの私には選択肢はありませんでした」
韓国経済が急速に右肩上がりになったのは、ジンヒさん家族が韓国を出た後、1988年にソウルオリンピックが開催されて以降のことだった。
1987年、ジンヒさんは両親と兄、妹の5人で最初はパラグアイのアスンシオンに渡った。そこで半年間を過ごし、ブラジルの伯母がブラジルへ呼び寄せるための書類手続きを完了するのを待ち、ようやくサンパウロに到着した。
3カ月ほどサンベルナルド・ド・カンポにある伯母の家で世話になり、やがてブラス地区に家を借りて家族で引っ越した。
ジンヒさんはブラジルに来てから最初は私立学校の聴講生としてポルトガル語を学び、やがて私立高校を経て、マッケンジー大学に入学して造形美術を学び始めた。
「私立高校では当時、私と同じような境遇の韓国人がたくさんいました。そのような友人とばかり過ごしていたため、あまりポルトガル語を覚えることができず、大学に入学した後、勉強について行く事ができずに中退しました」
ジンヒさんは別の大学に再入学して勉強を続けたが、その大学は閉校し、結局卒業証書は受け取れないままとなった。
ブラジルに来てから母親は既製服店の「ベンデー」と呼ばれる女性の訪問販売人として働き、ポルトガル語は流暢でなくても衣料品や韓国からの輸入品を販売して生計を立てていた。
ほどなくして父親は縫製工場を開き、既製服の製造・卸業を行うようになり、これまでジンヒさんも含めて家族全員で商売を続けてきた。(つづく)