「ブラジルに来てからはいつも韓国コミュニティーの中で生きてきました。縫製業を中心に同じような仕事で皆が儲けることができてきたからです」
そんな状況が近年は大きく変化した。特にこの10年間で中国人が増加し、中国から大量の安い既成服が輸入販売されるようになったことや、それまでミシンで縫う仕事だけを行っていたボリビア人が、布の裁断から縫製、販売まで一貫して独立して行うようになり、競合他者が増加して値下げ競争がひき起こったからである。
追い打ちをかけて今年3月にはパンデミックで商店が3カ月の営業停止となり、韓国コミュニティーの商売はさらに打撃を受けることになった。
「最盛期には5万人ほどいた韓国人は、現在、1万人から1万5千人に減少したといわれています。同時期にブラジルに来た韓国人の友人も、渡米した人や韓国に戻った人はめずらしくありません」
と最近の韓国コミュニティーの状況を語るキム・ジンヒさん。
ジンヒさんの妹もブラジルで大学を卒業してから韓国に戻り、ウェブデザイナーとして働き、韓国人と結婚してそのまま韓国に暮らす。
ブラジルの伯母の4人の子どもたちも2人はブラジルにいるが、1人はブラジルで医師となった後、米国に渡り、さらに韓国に移ってエステを開業した。もう1人は韓国人と結婚してチリに暮らしている。
ジンヒさんのご主人(54)は20歳の時にジンヒさんと同じような境遇で両親とブラジルに移民した。靴の製造・販売に携わってきたが、結婚してからはジンヒさん家族の経営する『ナッチファッション(Natti Fashion)』の仕事も手伝ってきた。
ブラジルに生まれ育つ21歳、18歳、16歳の3人の娘は、ジンヒさんが韓国語で話しかけるとポルトガル語で返ってくる。
「私もポルトガル語をもっと勉強しておけばよかったと思います」と少し後悔の念をにじませる。
「自分の心は韓国人で、いつも韓国は恋しいです。毎朝起きたら今も韓国のニュースを観て、韓流ドラマが楽しみです。今はフェイジョアーダにも慣れましたが、家での食事は基本的に韓国料理です」
思春期の多感な時期に祖国を離れ、未知のブラジルに移住したジンヒさん。独身の頃は度々韓国に旅行していたが、最後に家族そろって旅行したのは7年前。子どもの頃は教師になることや女性軍人になりたかったが、ブラジルに来たことでそれらの夢は不可能になった。
その分、3人の娘には自分の専門分野をしっかり勉強をして社会で活躍してほしいと願っている。
「両親や祖父母の世代は第2次世界大戦が終わるまでの日本の植民地時代、日本人から受けた偏見や差別に不満を持っていた話を聞かされました。でも、私たちの世代はもう過去の事であまり実感がわきません。韓国人も日本人も同じアジア人です。ブラジルの日系人も日本の日本人も落ち着いていて、よく教育されているという印象です」
高校3年生のジンヒさんの次女サブリナさんと同級生の日系二世の大浦聡一郎さんは、「なぜ過ごしやすい韓国や日本から両親がブラジルに来たのか」という素朴な疑問を共に抱いている。
2人はブラジル流の自己主張はあまり肌に合わないアジア系二世というゆるやかな連帯感もあり、似たようなブラジル観を共有できるほのぼのとしたアジアの平和を感じられる時代である。(つづく)