ホーム | 日系社会ニュース | アジア系コミュニティの今(4)=サンパウロ市で奮闘する新来移民=大浦智子=韓国編〈4〉 日本で幼少期過ごし韓国へ

アジア系コミュニティの今(4)=サンパウロ市で奮闘する新来移民=大浦智子=韓国編〈4〉 日本で幼少期過ごし韓国へ

前列の背の高い少年が金進卓さん

前列の背の高い少年が金進卓さん

戦時下の日本で生まれ育つ


 金進卓さんは1931年、当時の大阪府忠岡で韓国人家庭に生まれた。現在の大阪市西淀川区で尋常小学校(国民学校初等科)4年生だった時、大東亜戦争の戦火を逃れて山口県柳井市の上馬皿(かみばさら)に疎開した。金沢さんの心の故郷は、今でも少年時代に友達と野球などをして楽しく過ごした上馬皿だという。
 「学校の休み時間に野球をして友達と遊びたいのに、弁当を食べるのが遅い女の子がいてね。なかなか休み時間が始まらず、皆で早く食べるように意地悪を言って先生に叱られて。その仲間の川本や福田がもういないのは本当に寂しい」と憂いをみせる。
 国民学校時代は学校の行き帰りに鉄材を拾い集めたり、上馬皿では松根油を採ったり、馬の餌の草を集めたり、6年生からはほとんど勉強しなかった。旧制中学に進学して2、3ヵ月が経った頃、第2次世界大戦の戦火が押し寄せる中で、山口県光市の光海軍工廠(ひかりかいぐんこうしょう)で学徒動員された。
 そこで作業中、1945年8月6日に広島の空できのこ雲が上がるのを見た。1945年8月14日には働いていた施設が空襲を受けて壊滅し、「近くを流れる川の水が飛んでいった光景が忘れられない」と今も爆撃の恐怖が脳裏に焼き付いて離れない。
 その翌日、日本は終戦を迎えた――。

日本から韓国、ベトナム、そしてブラジルへ

金進卓さんと妻李根洙さんの韓国での結婚式の記念写真

金進卓さんと妻李根洙さんの韓国での結婚式の記念写真

 勝つと信じていた生まれ故郷の日本が戦争に負け、韓国の蔚山(ウルサン)出身の母の希望もあり、進卓さんは行きたくなかったが、家族全員で父の故郷の釜山(プサン)に移った。
 日本の学校では日本語を勉強していたため、釜山に戻っても韓国語ができず、漢字の読み書きはできたものの、韓国の初代大統領李承晩は漢字の使用を認めず、言葉で苦労することになった。
 進卓さんは、夜に韓国語の分からないグループで集まって勉強し、2年遅れで韓国の高校(旧制中学)に通い始めた。父親は釜山に戻ると、1台のトラックから100台以上のトラックを有する運送業者となった。
 「言葉ができて戦争もなければ、韓国の一流の大学で勉強したかった。でもそれは叶わず。今振り返れば、逃げることもせず戦争で戦ってばかりで馬鹿だったなと」
 高校卒業を目前にした1950年6月25日、今度は朝鮮戦争が始まり、韓国軍で約4年間働くことになった。その間、二度の爆撃を受け、一度は耳を負傷し、片耳の聴力を失った。
 朝鮮戦争が休戦すると、鉄道技師が夢だった進卓さんは工業学校で勉強をして電気技師となり、ソウルの飛行場で働いた。台湾、香港、日本へも渡航し、1970年までは香港に行けば日本の半値で販売されていた日本製品を購入することもできたことを振り返る。
「ちょうどこの頃に妻と結婚し、一番幸せな時でした」
 しかし、戦争で荒廃した国土は経済も破綻状態で、家族を養っていくのも大変だった。1964年からはアメリカの軍属としてベトナムに渡り、電気技師として働く道を選んだ。1970年に韓国に戻り新たな就職先を探したが、40代を目前にして小さな子供たちを養っていくだけの良い再就職先は見つからず、心機一転して海外渡航を決意する。

移民した頃の進卓さんと妻、子どもたち

移民した頃の進卓さんと妻、子どもたち

 「最初はカナダに行こうと思ったのですが、妻が寒い所は嫌だと言って」
 そうして米国に渡ろうとしたが、ビザを取得するのが難しかった。
「温かい所ならいい」
という妻の賛同を得て、ブラジルに移民することになった。飛行機で渡航するため、当時の航空運賃は家族4人で韓国の家一軒分に相当し、所有していた家を売って資金を用意した。
 1970年、進卓さんは3人の友人と妻、8歳の長男と6歳の長女を連れてブラジルに移民した。当時はまだ韓国移民は少数で、サンパウロ市アクリマソン地区付近に居を構えた。
 10年前までは昔からの40~50人の韓国人の飲み仲間がいたが、今はまた1人、2人と数が減ってゆく。一緒に渡航した2人の友人は、より可能性を感じてブラジルから米国に移住した。
 だが、進卓さんはブラジルで知人に全財産に近い額を騙し取られ、米国行きは断念せざるを得なかった。(つづく)