1962年に公式に始まった韓国移民は、2006年のブラジル連邦警察の調査では、約5万人の韓国人居住者が確認され最盛期を迎えていた。その後、下降をはじめ、現在は1万人から1万5千人に減少したともいわれる。
「韓国領事館関係者の話では、2020年に入ってから6千人がブラジルを去ったといわれています(2020年10月時点)。パンデミック以前からその動きはありましたが、さらにその数は増えそうです。商売をやめて夜逃げして消息不明となっている人の話も聞きます」と金進卓さんは話す。
「初期の韓国移民は、韓国の富裕層が多かったのが特徴でした。初期の日本移民とは異なり、農業経験はなく農業では成功できないため、持参した資金を元に経営者として着実に商売で成功していきました」
初期移民からはカラーを変えながらも、韓国人移民は縫製業を中心に一時は商売繁盛していた。それが、近年は中国からの安い輸入品が押し寄せ、ボリビア人の同業者による安い商品と競合するようになり、韓国人の居場所が失われるようになった。家賃や子弟の学費の高さもブラジルに見切りをつける要因となっている。
2000年以降、韓国人コミュニティが活気づいたのは、同時期にブラジルで躍進を遂げた韓国の多国籍企業、サムスン・グループ、LGグループ、ヒュンダイ・グループなどの存在感も大きい。
韓国企業がブラジル市場で成長した要因は、1980年代末から1990年代初めにかけて両政府間で種々の協定が交わされ、特に1991年には関税が軽減されたことも挙げられる。
それに合わせてボン・レチーロ地区もより一層韓国人街としてブラジルでの存在感を高めるようになった。しかし、一時的に生活する韓国人はいても、移民は減少の一途をたどっているのが今の韓国系コミュニティのようだ。
ブラジルのへの第一回韓国移民
ブラジルへの公式の第一回韓国移民は、1962年12月18日にオランダ船チチャレンガ(TJITJALENGKA)号*で釜山港を出発し、1963年2月12日に目的地のサントス港に到着した。ブラジルの韓国移民史は2021年で58周年を迎える。
当初、韓国の33家族がブラジルへ移民することを承認されていたが、17家族92人のみが日本にあるブラジル総領事館から入国ビザを受け取り、結果的には89人と非公式の「グルッポ・ペルクルソルGRUPO PERCURSOR」と呼ばれる11人の旅行者が乗船し、少し遅れて3人が飛行機でブラジルに到着した。
ブラジルと韓国の外交関係が樹立されたのは1959年。朝鮮戦争(1950―53)の際はブラジルにも米国から軍隊を派遣する要請があり、ブラジル政府の議論の焦点でもあった。1962年にリオ・デ・ジャネイロでラテンアメリカ初の韓国大使館が設置され、1965年にはソウルにブラジル大使館が設置された。
釜山を出港後、沖縄、香港、シンガポール、ペナン、モーリシャス、マプート(ロレンソマルケス)、ダーバン、ポート・デ・エリザベス、カーボ・デ・エスペランサ、リオ・デ・ジャネイロを寄港。
決して快適とはいえない貨客船での56日、約2万キロの航海は、日本人移民と同様に、新天地での新しい生活への希望が心の支えとなっていた。多くの移民にとって、戦争で国土が荒廃し、南北分断されて生活環境はよくない状況とはいえ、祖国を離れるのは辛いことだった。*元JCJL〔Java-China-Japan Line社(蘭)〕の貨客船、日本人移民の他、釜山にも寄港し韓国人移民も輸送した。(つづく)