家族が結束して商売
ブラジルに来てすぐ、バンさんの母親や叔母は、既成服に当時流行していた刺繍をデザインする仕事が引く手あまただった。それをさらに母親たちは「ベンデー」と呼ばれる訪問販売人として売り歩いた。
1963年から66年までの初期の韓国人移民は、農業移民としてパラナ州に入る家族が多かった。だが、大半が農業経験のなかった人々で、やがてサンパウロに出て商売を始め、バンさんが来る前には既に縫製や既成服販売の商売を始めていた人がいた。
母親たちが刺繍をした既成服も、父親が先に移民した韓国人から仕入れたものだった。刺繍を入れた服を車に積んでサンパウロ郊外まで行商すると、「待ってました!」とばかりにお客さんがやって来て、服は飛ぶように売れた。
バンさん家族はブラジルに来る前から、ブラジルでどの様な仕事にニーズがあるかを聞いていたため、事前に予習していたことも功を奏した。
バンさんは、2年後に韓国から移民してきた妻と出会って結婚した。その後は妻の店の事業を拡大させ、今日に至るまでパーティードレスの縫製とブラジル国内での販売を手がける『Jovialle』を経営する。
親族もそれぞれが会社を経営し、韓国コミュニティの成功者の1人として認知されている。
2020年3月以降、パンデミックになってからはバンさんの店も売り上げは一時半減したが、経営は維持できている。パンデミック以前から不景気と安い中国製やボリビア人による既成服の競合に押され、多くの韓国人が閉店して、韓国その他の国へ移住していく中、根の太い初期移民の粘り強さを見せる。
それでも「韓国人コミュニティの協会の会長に何度も推薦されてきましたが、私も周囲の仲間も不景気とパンデミックで自分を維持するのが精いっぱいです。今の韓国コミュニティが一つにまとまるというのは難しくなっています」と辛い胸中を吐露する。
この約10年間で厳しさを増していた韓国人移民の商売に対し、パンデミックが更に痛打した形だ。
ブラジルを拠点に韓国との間を往復
「ブラジルは政治家の汚職と治安の悪さが国の成長を妨げているように思います。気候もよく、世界の食文化が集まり、人々も温かく、あらゆる人種や民族、宗教の間での争いもなく友達になれる希少な国です。日本と韓国の間の歴史については年配の方たちから色々な事を聞いてきましたが、ブラジルに暮らしていると、結局、世界はどこでもいい人もいれば、悪い人もいるということを痛感します」
ブラジルに来た当初は懐かしい韓国に涙したバンさんだったが、今はブラジルで生まれ育った2人の娘と5人の孫もサンパウロに暮らしているので、永住帰国は考えられない。パンデミックになるまでは最低でも年に1回は韓国を旅行し、日本にも立ち寄っていつも会う日本人の友人もいた。
「現在は韓国の方が発展しており、物質的な面ではより豊かで便利な社会ですが、一カ月もいれば国内は一回りできるし、なんだか狭く感じちゃって。元気なうちは両国を往復できる生活が良いですね」
バンさんの今の夢は、「子どもや孫たちが無事に成長してくれること」だ。(つづく)