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中島宏著『クリスト・レイ』第120話

 その為、枢軸国の移民たちである、ブラジルにおけるドイツ人、イタリア人、日本人たちは、当然のことながら敵国人という目で見られ、集会、組織だった行動に対して制約の輪が一挙に狭められていった。外国語による新聞、学校などが閉鎖の憂き目に合って不自由さを託っていた外国移民の人々に対してさらに、彼らの母国語での会話をも禁じるという、かなり厳しい措置が採られていった。
 この当時の戦況は、ドイツ軍が圧倒的な力で、デンマーク、ノルウェー、ベルギー、オランダ、フランスの諸国を占領し、さらにはイギリスのロンドン大爆撃を開始していた。要するにこの時点では、ドイツの破竹の勢いの進攻がヨーロッパでは起きていたのである。
 はっきりいって、今回の世界大戦の先行きは混沌としており、このままでは連合国側がじりじりと押され続け、むしろ不利な展開になっていくという状況にあった。
 だからこそ、ブラジル政府としては、このドイツを始めとする枢軸国諸国に対して大きな警戒心を持ちつつ、この国に永住しているこれらの国々の移民たちへのコントロールを極度に強めていったのである。
 ただ、この機に及んでも、日本人移民たちは、ブラジル政府の処置に対して驚いたり不本意に思ったりすることはあっても、彼らの根底にあった考え方には、この戦争に日本が参戦するというような発想はなかった。
 情報源がほとんどなくなってしまった彼らにとって、母国日本の状況がそれほど切羽詰ったものになっていたことは想像できず、いずれこれは近いうちに連合国と枢軸国との間で和解の交渉が持たれ、ヨーロッパを舞台としたこの第二次世界大戦は終息に向かうだろうと見ていた。
 このブラジルに、情報を遮断された形で生きている日本人移民たちにとって、世界情勢の中での日本がどのような立場にあるのかということはまったく知る由もなく、日本がこの第二次世界大戦に突入していくようなことは、ほとんど想像することすら難しい話であった。
 しかし、現実にはこのとき日本は、この大戦に参入するという急な流れに乗り込もうとしていたのである。もちろん、このブラジルに住む日本人移民たちには、そこまでの急展開な足音は聞こえてくるはずもなかった。外国人に対する理不尽な締め付けに対する不満を覚えつつ、それでも彼らは従順に、この国の打ち出していく政策を甘んじて受け入れていった。世界情勢の急変によって、自分たちの運命も大きく変わろうとしていたが、だからといって、その状況から自分たちの力だけで脱出することは不可能であった。
 第一、世界の今の情勢そのものが完全に把握できていない現状からは、何をどう変えていけばいいのかという判断すらままならず、とにかく今は、静観してブラジルでの自分たちの周りの状況を見守るしか他に、明確な手段を見出すことはできなかった。彼ら、移民して来た一世たちにとって、自分たちの言語で話すことを制限され、母国語での新聞も、書物もすべて禁止され、その上、グループでの行動も許されないということは、人格をすべて否定されてしまうようなことに繋がっていくわけであり、それは精神的にもひどく重苦しいものであり、絶望感を伴うものでもあった。
 新世界、新天地への希望と期待が、大きな音をたてて崩れていくような、そんな侘しさと怒りとが、彼らの心の中に沈殿するようにして広がっていった。忍耐力という言葉が、このときほど身に沁みて感じられたことはなかった。