私が45年勤め、多くの出向役員のお世話になった人たちの中に一生忘れることが出来ない人がいる。
私の入社を決めた倉敷紡績ブラジル支店LKB(LANIFICIO KURASHIKI DO BRASIL S.A.)初代専務の斉藤英雄氏である。私を推薦して呉れた山本章氏の岡山中学の同級生で、全県珠算コンクールのチャンピオン、山本氏が次点であったと言う間柄であった。
その斎藤氏の在りし日の姿を示す写真は何一つ残されていないが、もう何十年も時が過ぎた今も私の心の中に鮮やかに甦る恩人である。
「自分の能力の限界に挑戦せよ」の教え
私がアルバレス・ペンテアード大学を卒業したのは、入社した年(1960)の暮れであった。専務には卒業記念の写真を差し上げ挨拶した時、「よく頑張ったな。卒業おめでとう。でもな、大学を出たからと言ってそれが頂点ではない。大学では会社の仕事のからくりまでは教えないからな。これは自力で切磋琢磨して経験を積み知識を蓄積する意外にない。要するに、常に「自分の能力の限界に挑戦することだ」と言われた。
初めは良く理解できなかったが、後にご本人が手本を示して呉れた「郷に入っては郷に従え」の教えを完璧に体現した。つまり現地で如何に適所適材を実施するかを、身を持って示してくれた事から納得したものだった。
倉敷紡績がブラジル進出を企画している事は、いち早くリオ・グランデ・ド・ス―ルの政界に知られ、当時州議会議長の現職にあった検事出身の弁護士を紹介して呉れた邦人が居て、専務と意気投合し、公共機関との折衝役顧問として協力して貰う事になった。
LKBはリオ・グランデ・ド・ス―ル州サンレオポルド市サプカイア・ド・スール管区(1961年独立して市に昇格した)に1959年5月に5600平米規模の紡績工場を竣工した。
工場の敷地の購入、市税の免除等の交渉を有利に導いてくれた上に、工場用水を賄うために敷地内に掘った掘り抜き井戸の水が不充分であった事から、国道BR116号を挟んで1キロ以上も離れたシ―ノス河から、敷地内の浄水池まで引き入れパイプ設置を国道の下を潜る工事許可取得に成功した。
工場が操業を始めて間もなく、羊毛梳毛工場の最低経済単位である1万2千錘(すい、紡錘をかぞえる単位)への増設計画に取り掛った。114・28%の増設である。
丁度その頃、興隆期にあった自動車産業界の活発なロビー活動によって無為替輸入制度を制定された。当時ブラジルは外貨不足に悩み、輸入許可申請の時点で輸入額の100%の積立てを義務付けていた。
無為替輸入とは現物出資の事で、外貨を持ち込んでその金で機械設備の輸入手続きをすると言う事ではなく、機械設備を直接持ち込んで外貨投資として登録する仕組みで、輸入為替契約が無いから積立金を回避すると言う発想である。
これが許可されれば100%の積立資金が要らぬ上(金額は覚えていないが数万ドルであったと思う)と、国産類似品が無いので輸入税が免除されると言う事で早速準備にかかり、CACEX(ブラジル銀行の貿易部)に申込書式を貰いに行ったら、そんなものは無いから勝手に作文して申し込めとの事であった。
業界からの猛反発に対抗
クアドロス大統領に直訴
結局手探りで申請書を作成して提出したところ、これは自動車産業向けの特例であって繊維業界には適用されないと言い出した。法律として公布された以上特定の業種のみと言う事は不合理だと発案者の顧問が強引に交渉した挙句輸入許可書を取り付けた。
ところがそれが新聞記事になった途端に業界から激しい反論が起こり、LBKは新鋭機械をタダで輸入し、ブラジル繊業界の正常な競争市場を破壊する不届きな企業であると、毎日のように各新聞を通して抗議した。
遂には、LKBは大規模な密輸業者だと言い出す始末。要するに無為替輸入の趣旨を十分に理解出来ず、単に競合社に有利な条件を与えまいとする行動であった。
それでも業界のリーダー達を巻き込んだキャンペーンが功を奏し、政府はLKBの無為替輸入許可書の効力を停止した。
そこでまた顧問を登場させ、壮烈な運動を展開した。最終段階に至り、連邦制度の歴史の中で記録破りの得票で当選、就任したばかりのジャニォ・クアドロス大統領と直談判する事になった。
クアドロス大統領は汚職追放(箒をシンボルとした)と、官僚の作業の効率化(自ら上下の洋服とネクタイの着用を廃止、ボーイ・スカウトの制服みたいなスタイルで執務した)をスローガンとし、決断は紙片にメモ書きして発令すると言った行動を売りものにした変わり者で有名な大統領であった。
だが頭の回転は極めて鮮やかで、事情をじっくり聴いたうえ即座に決断しLKBの無為替輸入許可の効力復活を認可した。
この一連の交渉は顧問が主体となって進めたものであるが、これを決断し全て権限を付与したのは外ならぬ斎藤専務の迅速且つ的確な行動力の成果であった。
「東方遥拝型」の出向役員たち
こうした難局に直面した際、多くの出向役員は不勉強の為ブラジルの慣習に疎く、また発生した事態の対処に当たり失敗してキャリアに影響する事を恐れ、「事なかれ主義」に徹底した。
そのように、本社にお伺いを立てる「東方遥拝型」と言う事をせず、斎藤専務は状況を一早く把握し、ブラジルの習慣に即した交渉の進め方を十分に理解、タイミングを失うことなく、自身で決断を下す積極性に富み、適任と思われる人物に一任するなど、自分の能力の限界に敢然と挑戦した。
然しながら社内では全員がこのように評価した訳ではなかった。戦後の日本でゼロから出発して経済の再建に携わり、徹底した倹約ム―ドの中だった。
例えば会社の電話で通話する場合、余計な挨拶を抜き、私用などもってのほか、電報文は字数を省き(テレクス、ファックス、インターネットも無かった時代)、出張費は徹底的に削減するなどと出向者役員たちは厳しく鍛えられた。
彼らは、顧問の行動を批判し(ホテル、最高級のレストランでの官吏との会食等)特権を悪用した不要な無駄遣いであると批判した。さらに、無為替輸入許可復活交渉の功績は認めず、効力復活はひとりで転がり込んだ位にしか評価していなかった事は返す返すも遺憾であった。
この一連の行動を横で観て、私はやっと入社当時に言われた言葉が理解できるようになった。爾来、私は座右の銘として大事にしている。
私はLKBのサンパウロ支社の会計士として採用されたが、社員数が少なかった事から、畑違いの庶務(文書作成、タイプ)、外勤、機械部品/資材の調達または輸入、製品輸出、機械部品輸入、原毛買付にウルグアイ、アルゼンチンへの出張、顧客の与信限度設定、翻訳、社長の代理で紡績協会の週毎の会議への出席、毎月サプカイア本社に出張し、主に原価計算などに携わった。名刺には『何でも屋』とは書かれていなかったが、仕事の内容はまさにその通りであった。
また社外に於いては、日本商工会議所の渉外部の部員として参加、後に文協に招かれて県費留学生の選考試験を行う奨学委員長、JICA事業協賛委員長、クラシック音楽委員長、団体活性化委員長の外、専任理事、会計理事、副会長3期、会計監査役、評議員等を約20年に亘って歴任した。
何とかこなす事が出来たのも、自分の専門外であるとか出来ないとか言わず、日本とブラジルのかけ離れた文化の融合点を模索する役目を負って、桁は小さいが自分の能力の限界に挑戦した結果であり、これらも全て斉藤英雄専務の教えのお陰であり、一生の恩人として思い出を大切にしている。