50歳過ぎからの語学習得は難易度が高い
韓国で社会的地位を築いてきた鄭さんが、ブラジルに移民したのは51歳。「やはり50歳過ぎてから新しい言語を覚えるのは難しいです」と、今にいたるまでブラジル生活で一番困難を感じているのはポルトガル語だと話す。
01年からは韓国の中央日報ブラジル支社へ毎週コラムを投稿するなど、韓国語での文筆を中心に生活している。韓国やブラジルで経験してきたことを次世代へ伝えておきたいという気持ちも人一倍の鄭さんだ。
日本語会話はできないが、韓国にいた時もブラジルに来てからも隣国の日本、隣のコミュニティの日本を常に意識しながら過ごしてきた。言葉の壁があり、日本人や日系人の友人もいないが、深い洞察力で日系社会や韓国系社会を観察してきた。アジアの諸事についても、朝鮮半島の視点からとブラジルや南米からの視点で、韓国語が分かれば鄭さんから貴重な意見や証言を得ることができる。
「韓国から来るメディア関係者は、様々な個人の話をじっくり聞かず、関係機関ばかりを訪問して資料だけを集め、それをコピーして発表するだけ。とても物足りない」と残念な表情を浮かべる。
根を張る日本人、移動する韓国人
鄭さんは執筆活動に専念するため、サンパウロを離れてブラジル各地に移動し、数カ月間を異なる土地で過ごすことがある。
以前、サンパウロ市近郊のコチアからイビウーナ一帯をじっくりと観察する機会があった。そこで印象的だったのが、日本人移民が長年同じ土地に定住し続け、農業だけでなくスーパーなども経営して、黙々とコミュニティを維持していることだった。
日本人移民が1908年に最初に公式な到着して以来、日本人は農業移民が多く、幾多の試練を乗り越えてブラジルでの生活を地道に築きあげてきた。
他方、半世紀ちょっとの歴史を有する韓国人移民は、初期は富裕層が資金を持参して移民し、ブラジルでも商売を短期で成功させてひと儲けし、その後、財産を持って米国やカナダに移住する人々も珍しくなかった。
中には新しい移住先でせっかく築いた財産を失い、またブラジルに戻ってくるような人もいた。
この約10年間の不景気とパンデミックによるビジネス環境の悪さで、ブラジルを離れる韓国人は珍しくない。日本人と韓国人では移住することに対する認識やスタイルも趣を異にするといえそうだ。
「心配なのは、You Tubeを観ていたら、今の日本の田舎には数十万の空き家があり、過疎化による衰退が進んでいると。戦後、米国によりまずは日本が、そしてそれを模倣して韓国や中国が発展して豊かになりました。しかし、今後は日本の後を追って韓国でも衰退の足音が忍び寄るのではないかということです」と、海外にいるからこそアジアを俯瞰し、常に郷里を思う鄭さん。
遠くにある祖国やアジアを、じっと目を凝らして真剣に見つめるその後ろ姿は、日本人移民の先人と大差ないと痛感した。(終/韓国語通訳協力:栗木圭子)