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中島宏著『クリスト・レイ』第135話

 遥か彼方に遠ざかった祖国は、今の、そしてこれからの私にとっては、直接には関係のない世界ということになるから、そこをいつまでも思い出したり、考え続けたりすることは、私にはあまり、建設的なものとは思えないの。
 もちろん、幼少のときから大人になるまで育った国だから、そこで形成されたものは、はっきりと私の中に残っているものだし、それは一生消えるものでないとは思ってるわ。でも、それはそれとして、どこか心の奥底に仕舞って置けばそれでいいと私は考えるの。
 いつかずっと先になって、私が老境に入りかけた頃、その仕舞っていたものが不意に現れてくることも、あるいはあるかもしれないけど、それはそれで、それなりの意味があるということなんでしょうね。まあ、実際に私が、その年齢まで生きていれば、ということだけど」
「大丈夫、君だったら大いに長生きしそうだから、そういう日は必ず訪れると思うよ。
 ところでね、アヤ。君がさっき言っていた、ブラジル人の世界に入っていくには、ある意味で個人主義にならなければ駄目だという意見だけど、そういうことはたとえば、君の叔父さんの家族とか、この植民地に住む人たちとかと、そういう話をすることはあるの?その話をした場合、彼らの反応はどうなのかな、君の意見に賛成、それとも反対なのかな」
「実はね、そのことについてはまだ、家族にも周りの人にも、誰にも話していないの。こんな話をするのは、マルコス、あなたが初めてなの。まあ、あなたはブラジル人でもあるし、こういうことは簡単に理解してもらえると思ってるから、まったく問題ないけど、それをあの人たちに話したら、多分、簡単には分かってもらえないでしょうね。だから、今のところ誰にも話そうとも思わないわ。でも、結局は時間が経つにつれてこういうことは誰にも分かっていくことだから、いずれ皆が知ることになるのでしょうけど」
「しかし、このゴンザーガ区の人たちは、君と同じようにブラジルへの永住を最初から決めているということだから、君の意見には賛成することになるのじゃないかな。だったら、何も問題はないと思うけどね」
「表面的には確かにそうだし、皆がブラジルに永住するという目的で来てるから、問題はなさそうだけど、でも、本心はどうかというと、必ずしも同じ考えを持っているわけじゃないの。私のように、比較的身軽な形での移民であれば、さして問題はないけど、しかし、大勢の家族、あるいは親戚一族を一緒に連れてきている人たちは、その辺がなかなか大変みたいね。
 隠れキリシタンという、同じ旗印をかかげて来ている仲間たちには違いないんだけど。何というのかしら、それぞれの家族の事情はお互いにまったく違っているから、なかなか足並みが揃わないというところがあるわけね。私のような若輩が分かったようなことを言っても、誰も耳を貸さないだろうし、いきなりブラジル化しようといったところで、まるで次元の違う世界の話ということになってしまうわね。
 そこに、さっきからいってる、微妙な問題があるということなの。私は理想を目指すタイプだし、若いから勝手なことを言えるけど、でも、大抵の人たちはそんなことを考える余裕はないし、もっと目先のことを心配しなければならないから、簡単には意見が合わないのも無理はないわね。
 だから、いま私が考えていることは、とにかく私のようなちょっと変わった人間がまず、ブラジルの社会へ入り込んでいって、もっとこちらの人たちとの接触を深めていきながら、ここの植民地のグループの人たちとの橋渡しのようなことができないかなということなの。