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中島宏著『クリスト・レイ』第148話

 じゃあ、自分たちは、この国の土になるのかということだけど、まさにその通りということね。私たちは最初からそういう考えで移民して来ているし、それが本来の移民だというふうに信じてもいるわけね。
そういう発想は、日本を中心にした考え方から見れば、ちょっと理解しがたい雰囲気があるかもしれないけど、しかし、目をもっと広いところに移せば、そういうことも分かるのではないかと思うの。世界は日本とは比べものにならないほど広いから、そこに入っていくにはそれなりに大きな視野と尺度を持たなければ、本当の意味で、生きていくことが難しくなっていくのじゃないかしら。特に、このブラジルのように未開地がまだまだ多い国では、そのことがもっと必要になると考えられるわ。私のように、隠れキリシタンの流れを汲む人間には、案外、その辺を簡単に理解しやすいところがあるようね。
 つまりね、隠れキリシタンの人々にとって、神の存在する所には限界というものがなく、どこでも同じように迷うことなく生きていけるという考え方が、その基本にあるのね。
 それが日本であろうが、ブラジルであろうが、そこには大きな差がないということね。しかし、そういうふうに言ってしまうと、何だか抽象的な風景になってしまうから、かえって理解されにくいかもしれないけど、実際にはそれが実態と言えるかもしれないわね。
私が、日本で隠れキリシタンの歴史を勉強し、私なりに一生懸命考えた末に辿り着いたことというのは、大体、そういうことなの。
つまりね、あのフランシスコ ザビエルから始まっていったキリスト教の形は、日本という特定の枠から飛び出して、もっと広く大きい国際的な視野に昇華されていったのではないかと思うの。フランシスコ ザビエルが、日本の土に根付かせたキリスト教は、その根源にある精神的な形を継続しつつも、表面的にはかなりその姿を変えながら結局、何百年も生き続けていったわけね。
 あの、幕府の弾圧の下で、当時のキリシタンたちは、必死になってキリストの像を変形させつつ、それを継承していったということでしょう。それは、最初にザビエルが日本に持ち込んだキリスト像とは似ても似つかない形のものではあったけど、その底に潜んでいた精神は、最初のものと何も変わっていなかったということなのね。あの熾烈な弾圧から生まれていったものは、オリジナルの形を大胆に変えつつも、その根源的なものはずっと守り通したという、隠れキリシタンたちの、現世を超えた、さらには時空を飛翔してしまうほどのしたたかさではなかったかと思うの。それがあったことによって、ポルトガル人たちが国から追放されても、日本でのキリスト教は絶滅することなく続いていったわけね。
 それと同じとは言わないけど、似たような精神が、隠れキリシタンの末裔には永々として受け継がれているのではないかと、私は考えているの。そういうふうに考えると、たとえ周りの環境や世界が異質のものに変わっていっても、隠れキリシタンの心の中は、ブレることなく生き続けていくことができるのではないかということね。