第2章 夢のブラジル
船内での活動は豊富で、若い人たちの間では相撲や柔道、腕相撲などが人気を集めていました。数年後、それらの娯楽、特に柔道がブラジルのみならず、世界でも人気のスポーツになり、オリンピックの正式種目にまでなるとは彼らには知るすべもなかったでしょう。
父は身長170センチで当時としては身体が大きく、頑丈な農夫だったので挑戦されたらあらゆる勝負に挑み、ヘマも惨敗もすることもなく常にチャンピオンの座についていました。
穏やかな日々が続いていましたが、大きなグループの中にはやはり弱い者いじめが一人ぐらいは現れるのが常らしい。その船の上も例外ではなかった。新垣君という背の低い、ひ弱な19歳の青年が一人旅をしていました。マットグロッソ州のカンポ・グランデ市に向かう予定だった。航海中に燃料補給のため船が一時停止すると、ある年配の男性がパンや酒、たばこなどを買い込み、それを新垣君に払わせました。その話が父の耳に入り、父は最初何の反応も示さなかった。じっと様子を伺い、辛抱強く次の停泊時を待った。
船が次に投錨した時点で父が予測したことが起きてしまいました。年配の男性はまたもや酒やたばこという余計な買い物をし、ひ弱な新垣君に強制的に払わせようとしたのです。根っから正義心の強い父は直ちに割り込み、その年配の人に近づき、新垣君が今まで支払った金額を全部返すようにと説きつけたのです。
それからは、ブラジルに着くまで二度とこのような事態が繰り返されることはありませんでした。
果てしない航海の後、巨大な鎌倉丸は1931年2月10日にようやくブラジルのサントス港に到着しました。日本からの若者達はお互いに別れを惜しみながらも心に抱いている不安を語り合うことも、行き先の目的地などについても語り合うことはありませんでした。その代わり、お互いへの幸運の願いは、大いに交換されました。異国情緒あふれる声と、異国の地での新しい人生の言いようのない希望についての交流は賑やかでした。
予想通り、新垣君はマトグロッソのカンポ・グランデ市へ向かいました。私の父はサンパウロ州の南海岸地帯にある現在のペドロ・デ・トレドと呼ばれる地区、アレクリンに行きました。そこで彼は、すでに様々な面で助けて頂いていた従兄の政孝さんが働いていた耕地に雇われ、すぐに仕事に就きました。