日本人にとって一番馴染み深い海外の観光地。多くの人が真っ先に思い浮かべるのがハワイなのではないでしょうか。日本人観光客と現地ハワイの観光産業は深い縁で結ばれていますが、日本とハワイのつながりは、実はそれだけではありません。
サトウキビ農園で働いた日系移民の末裔がハワイに根を下ろしている事も深い縁を象徴していますが、その根幹は、今から130年以上前にさかのぼるのです。
明治14(1881)年3月11日、ハワイ王国の国王であったカラカウア王が赤坂仮御所の明治天皇を訪問されました。カラカウア王はこのとき、ハワイ∙アジア連合を構築して明治天皇がその盟主となること、また姪のカイウラニを日本の皇室に嫁がせることなどを提案したのです。
しかし、そのハワイはいまでは米国の一部。一体何があったのでしょうか。その歴史を俯瞰し、アロハ・オエという歌に隠された意味を考えてみたいと思います。
白人に蹂躙された王国
ハワイは、18世紀末キャプテン・クックが「発見」したことになっていますが、実際には、ハワイにはもともとのハワイ人達が平和に暮らしていました。
クックは、交易を申し込みましたが、同時に麻疹、結核、コレラ、ハンセン病、梅毒などの病気も持ち込みました。ハワイを含め、かつて太平洋の島々に共通していた概念があります。もともと「土地所有という概念を持たなかった」のです。その代わりに、バナナの木などは、誰の所有かがかなり厳格に定められていました。
要するに土地は個人の所有物ではなく、共同生活のための「みんなのもの」であって、家族を養うためのココナッツやバナナの木などについてのみ厳格な所有権を認めていました。
この所有権は大変厳しいもので、バナナのたった1本、ココナッツの実一つでも泥棒されたら、彼らは島中総出で犯人がわかるまで、全員参加の会合を開き続けたりしていました。
それだけ地上における果物は、生活に密着した大切な宝だったのです。ハワイにやってきた白人たちは、島民たちが土地の所有権を持たない事を知り、勝手に土地を領有していきました。その規模は、なんとハワイ大国の国土の75%以上に及びました。
島民たちは、居住区を追い詰められ、クックが最初に来島した頃には30万あった人口が、およそ100年後にはわずか5万7千人に減ってしまっていました。国民の8割の人口が失われてしまったのです。なお、欧米によって植民地化された他の国も、ほぼ例外なく人口が8~9割減少しています。
この状況にあって、ハワイの人々の生活を守るためにと立ち上がったのが、カメハメハ大王でした。19世紀、日本でいうと明治時代初期、カメハメハ大王は、欧米人種と対抗するために、明治維新の時の日本と同じように、一方で彼らから武器・弾薬を買い、一方で種々の部族がひしめくハワイ諸島を統一しました。
武器購入のための資金は、サトウキビ等の輸出など、国内産業の発展によって賄いました。なんとかして白人たちと、人として対等に暮らせるようにしようとしたのです。しかし輸出相場の変動、疫病の蔓延、白人たちによる暴行などによって、国力は徐々に衰退してしまいます。
有色人種の希望の星日本
カメハメハ大王没後、大王の孫に当たるカラカウアが王位に就きました。そして王位に就いたカラカウア大王は、明治14(1881)年に来日するのです。この頃の日本は「有色人種で唯一の独立国」。日本は、有色人種の希望の星だったのです。
そしてこれが、外国の王が日本にやって来た最初の出来事となりました。来日したカラカウア大王は、アメリカ人の随行員らを出し抜いて、日本人通訳のみを連れて、夜中に密かに赤坂離宮を訪ねると、明治天皇との単独会見を願い出ました。
天皇側は夜中の訪問を不審に思いますが、会見に応じることにしました。すると大王は、明治天皇にハワイ王国の窮状を述べ、5つの事項について、日本の協力を要請しました。
(1)日本人移民の実現ハワイ人の人口減少を同一種族である日本人の植民で補う。
(2)やがて王位を継ぐことになる姪のカイウラニ王女と日本の皇族の山階宮定磨親王との婚約。
(3)日本・ハワイの合邦(ハワイを日本にしたい)
(4)日本・∙ハワイ間の海底電線敷設。
(5)日本主導による「アジア連邦」の実現
カラカウア大王の写真をみるとわかりますが、もともとのハワイ諸島に住んでいた人達は、モンゴロイドであり、縄文人の末裔であり、顔立ちも日本人と同じだったのです。よって、同一種族である日本人移民を実現したいと思っていました。
和服に和傘をさしている美しい女性です。せっかくの婚約の申し出でしたが、明治維新後わずか14年の日本には、この時点で欧米列強を敵に回して対抗できるだけの力はありませんでした。やむなく明治天皇は、翌年、カラカウア大王に特使を派遣して、婚姻を謝絶しています。
米国の軍事クーデター
しかし、もう一つの申し出である日本人によるハワイ移民は実現させました。これが1884年の「日本ハワイ移民協約」です。明治18(1885)年、第一陣の日本移民がホノルルに到着しました。ハワイでは盛大な歓迎式典が行われ、もちろんカラカウア大王もご臨席されました。
やってきた日本人には日本酒が振舞われ、ハワイ音楽やフラダンス、相撲大会まで催されました。
明治24(1891)年1月、カラカウア大王が病死。後継者には大王の実妹のリリウオカラニが女王として即位しました。女王は、明治26(1893)年1月15日、ハワイの民衆に選挙権を与えるために、ハワイの憲法を変えようとしました。宮殿前には、女王を支持する大勢の民衆が集まっていました。
もしこの憲法改正案を施行すると、市民権を持っていない白人たちは選挙権を得られず参政権が否定できます。まさにそのための憲法改正でもあったわけです。
これに対し、翌1月16日、米国公使のステイーブンスは、「米国人市民の生命と財産を守るために」と称し、ホノルル港に停泊中の米軍艦ボストンから、海兵隊160名を上陸させ、政府庁舎や宮殿近くを制圧しました。そして軍艦ボストンの主砲の照準を、イオラニ宮殿にピタリと合わせました。
そしてハワイの民衆の命と引き換えに、女王の身柄を拘束したのです。ハワイの王族や軍、あるいは国民達は、女王奪還のために徹底抗戦の構えを見せました。しかし、島民たちの命が人質に取られているという状況を前に、リリウオカラニ女王は「無駄な血を流させたくない」と、退位を決意しました。
この瞬間にハワイ王国は滅亡。カラカウア大王が来日から僅か12年後でした。この時、ハワイにはすでに入植した日本人2万5千人の命までも、人質となっていました。
東郷平八郎と戦艦派遣
そこで日本から急遽巡洋艦「浪速」と「金剛」が派遣されました。2月23日、到着した「浪速」と「金剛」は、米軍艦ボストンの両隣に投錨しました。艦長は、若き日の東郷平八郎です。東郷平八郎は、いっさい米国人たちと合おうとせず、会話も拒みました。
そして、ただ黙ってボストンの両隣に「浪速」と「金剛」を停泊させたのです。もちろん砲台は、まっすぐ前を向いたままでしたが、完全な臨戦態勢です。軍艦ボストンからしたら、これほど気持ちの悪いものはありません。
両側を日本の巡洋艦が固め、その主砲は、一応は前を向いているものの、ちょっと横を向いただけでボストンは沈没を免れないのです。東郷平八郎は、実弾をもって戦うのではなく、米国人たちに無言の圧力を与えることで、ハワイ市民の混乱や市民に対する白人の略奪を阻止したのでした。
かって日本に来日したカラカウア大王は、キリスト教宣教師によって禁止されていたフラダンスを復活させた大王でもあり、フラダンスの父と呼ばれています。
アロ・ハオエに込められた祖国失った民の想い
そして東郷平八郎氏と親交があったといわれるハワイ王国最後の王女、リリウオカラニ女王が、作詞作曲したフラの名曲が「アロ・ハオエ」。
「Aloha ‘Oe アロハ∙オエ(あなたに愛を)
谷に降り注ぐ大粒の雨
森の中を流れゆく
谷の花アヒヒ・レフアの
つぼみを探して
さようなら貴方
木陰にたたずむ素敵な人
別れの前に優しい抱擁を
また会えるその時まで」
とてもやさしい旋律で、いかにも太陽の恵みを燦々と浴びた名曲という印象がありますが、この美しい旋律の陰には、侵略者に踏みにじられ祖国を失ったハワイの民の悲しみが歌われているのです。
そしてそんな深い悲しみがあっても、それをやさしく明るい旋律で包んでしまう。恨みだ被害者だといって、ただ闇雲に騒ぎ立てるような国とは、明らかに違う民度が備わっていました。
西洋で生まれた国民国家は、王は庶民から収奪し、戦争をし、贅沢三味をするなどをするため、その王権に制限を加えるために、憲法や政治組織ができあがっています。
しかし、日本やハワイは、西欧とは一線を画するものでした。このリリウオカラニ女王の決断は、ポッタム宣言受諾の時の昭和天皇の言葉を思い出させます。
「一人でも多くの国民に生き残ってもらって、その人たちに将来再び立ち上がってもらう以外に、この日本を子孫に伝える方法は無いと思う。みなの者は、この場合、私の事を心配してくれると思うが、私はどうなってもかまわない」
リリウオカラニ王女自身の「我が身はどうなっても構わない。一人でも多くの国民の命を守りたい」というご決断のもとに、滅亡したハワイ王国。
ハワイは、王女の退位という現実の前に、それ以前にあったハワイの古くからある文化のすべてが失われてしまいました。日本も、もしかしたら黒船来航以後、欧米列強によって国民の人口の8割が失われ、さらに国そのものがこの地上から消えてしまっていたのかもしれないのです。
これを守ることが出来たのは、ひとえに、幕末から明治にかけての日本人が、勇敢に「戦う」という姿勢を貫いたことによるのかもしれません。ハワイの文化をもっと知りたいと思うと共に、幸運にも日本が受け継いでくることの出来た大切な文化を、これからも大切にし、次の世代に伝えていきたいと思います。
(ユーチューブより抜粋)