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安慶名栄子著『篤成』(22)

 当時、恒成は「へいや」という名の通った新聞社に入社する事が出来ました。そこで仕事をしたおかげで日本語の読み書きが一層磨かれ、流暢な日本語を使えるようになりました。そして夜間学校では自動車工学を学んでいました。
 父は兄に農民になってほしくなかったのでした。頭がよく、漢字まで読み書きが出来た兄には農家よりましな仕事に就く条件が整っていました。
 そんな時、またもや運命の手が差し伸べられ、父は新たにとても厳しいジュキアー方面の上り下りの多い斜面のバナナ農園を賃借しました。
 当時を振り返ってみると、父はどんなに叶えられなかった多くの夢があっても、一度たりとも子供のことを第一にしないことはありませんでした。子供を社会人にするといつも言っていました。
 その頃も、まだトラジリオが父の右腕役を担っていました。私も父の手伝いをしたかったのですが、バナナ一房もかつぐ事が出来なかったので、何の役にも立ちませんでした。兄はサンパウロに行っており、姉は政孝叔父さんのところで炊事の手伝いに行っていました。政孝叔父さんは年老いており、姉は炊事が好きでしたので、ちょうどいいコンビが出来ました。
 だが、悲しいことにみつ子が病気になってしまいました。
 心配した父は、色んな形で治療を試みましたが、みつ子は日増しに痩せ、体中に痛みを訴えるのでした。診断の結果、膠原病の一種、関節リウマチでした。当時としては完治の難しい病気でした。
 妹は、唯々常に一人で戦っている父がこれ以上苦しまないようにと、何かの形での奇跡を求め、「死なせないで下さい」と神様に拝むのでした。妹も私同様、父に関しての心配が大きかったのです。
 常に希望を抱き、信仰心を失わず、あれこれ探しているうちに、サンパウロ州の奥地のイツー市でブラジリーナさんという方がハーブを基に作った軟膏をプラスター状にした物で治療をしていると耳に入ったのです。
 父はすぐに妹を連れて、ジュキアーからサントスへ出て、そこからサンパウロへ、そしてサンパウロからイツーまで行きました。ブラジリーナさんは妹に完治の見込みがあると言いましたが、病状がかなり進行していたため、プラスターを何回か張りなおさなければなりませんでした。
 苦難の道には必ずと言っても良いほど運命は、心の良い人との出会いを許してくれるものです。その時もブラジリーナさんは父の難しい状況をとっさに把握し、みつ子が家で治療を続けられるようにプラスターを郵送してくれると約束をしてくれました。
 みつ子は、火傷をされているような感じがすると訴えましたが、「生きたい」という気持ちと、あんなに苦難の道を辿ってきた父にこれ以上の苦しみを受けさせたくない一心で我慢し、神様にも「生きさせてください」と自ら頼むのでした。
 こうしてみつ子の病状は、幸いに回復に向かいました。
 周りにいた人たちは、みつ子の異常な痩せ方と足の変形までみられるようになっていた状態からして完治は無理だろうと思っていました。しかし回復したところを見ると、それはもう奇跡に他ならない、という話が広がっていました。