前回に続き、イザベラ・バードの旅の記録を宮本常一の解説を交えて、いくつか取り上げて紹介する。
通訳と、車夫と、3台の車でいよいよ旅が始まる
イザベラ・バードは、秘書の伊藤という青年を伴い、1878年(明治11年)6月11日、東京を発ち、日光から北上し北海道に渡る長い旅が始まる。旅の達人であっても、やはりいろいろな不安がよぎった。それでも彼女は、ゆく先々での出来事、目撃したこと、出会った人々のことを、詳細に記録した。
荷物は、できるだけ身軽にと思ったが、バードの荷物だけで約50キロ、通訳の伊藤の荷物40キロを柳行李に詰め、日光まで3台の車を雇い、車夫を変えずに出発した。携帯したのは、ブラントンの日本大地図、アーネスト・サトウの英和辞典、お金や、薬、英国公使発行の旅券(通行手形のようなもの)などであった。
日本人の二つのタイプ
バードがしぶしぶながら雇った通訳は、年齢18歳、身長150センチ足らずの若者だった。ヘボン博士(漢字、ひらがな、かたかなに続く第四の日本語表記として「ヘボン式ローマ字」の考案者)の召使の一人と知り合いだといって、推薦状も無しに自分を売り込んで面接に来たが、顔つきが悪く、どうにも好感が持てなかった。彼は応募して来ているにもかかわらず、ヨーロッパ人の優越的な上から目線に対抗するかのような、反抗的な態度が見られるからであった。
宮本常一によると、バードが指摘するように、この頃から日本人には歴然として二つのタイプがいた。
一つは「笠に着るタイプ」。権力や地位に守られながら、外面を取り繕うのが上手く、本音は傍若無人のずる賢い術を熟知した悪人ども。
他方は自力で真っ当に生きることを誇りにし、「実力で勝負するタイプ」。その振る舞いは、とことんお人好しで、誠実この上ない。このグループは社会の最下層で大きな厚みを持っている。
バードの他にも、明治に日本に来た多くの外国人、エドワード・モースやアーネスト・サトウは日本をたいへん褒めているが、その賛辞は、後者の側に向けていた。彼らは故国の理不尽な歴史の経験を通して、人間の真価を、日本人庶民の中に見たのであろう。
結局、バードは第一印象の悪かった伊藤を秘書として雇うが、旅先でこの伊藤を通して、外見からは想像できないほどの、嘘もごまかしも無い日本人の姿に、痛いほど感激することになるのである。
礼儀正しい車夫
当時、一番先に外国人と接するのは車夫。今日のタクシーの運転手ということになる。その頃の外国人の記事の中に、車夫に対する悪口は全くと言っていいほど出てこない。
車夫は入れ墨をして、笠とふんどし姿の荒々しい男たちだが、バードに対しても、仲間同士も、互いに親切で礼儀を弁えている。それを目の当たりにするたび、バードの心には喜びの泉が湧くようであった、と記している。
道中で、車夫たちはバードに対してこまごまと気を使い、世話をし、旅の疲れの慰めにと、ツツジの一枝を手折ってくる。悪い水に当たって同行できなくなった一人の車夫は、契約を厳重に守って代わりの者を呼び交代する。
病気を理由にして金銭やチップを要求することも無い。遺失物のために4キロの道のりを戻って探してくれたり、その謝礼を渡そうとしても、仕事だからと受け取らない。
バードは、「世界で日本ほど、婦人が危険にも無作法な目にも合わず旅ができる国はないだろう。ユスリ、強盗、料金のぼったくり、酒の匂いをさせて仕事をさぼる、といったことは全くない。このような国は他にないと私は信じている」と断言する。
蚤の大群…
最初の晩は粕壁(春日部)で一泊するが、床の上をぴょんぴょんはねるほどの蚤の大群に襲われ、携帯用のベッドで寝むれぬ夜を過ごす事になった。
かつて松尾芭蕉はその状況を、「蚤をふるいに起きる暁」と詠んだ。蚤の襲撃で一晩中眠れず、明け方は、着物の蚤を払うために起きる、という歌である。
東北の夏のねぶた(ねぷた)祭りは蚤にやられて一晩中眠れず、ねぶたさ(眠気)を流す、つまり、身体に張り付いている災い、病を川に流すということを由縁にしているらしい。旅の間中、蚤との闘いは続いた。
日光の道沿いの店
通りに沿った家は皆、戸口を全開にして店を開いている。菓子屋、干物漬物、餅、干菓子、雨傘、草鞋、人馬の旅の必需品を並べて売っている。戸口が開いているので、その奥の住人の生活習慣などもすべて観察できて、バードの好奇心も最高潮に達していた。
「茶屋」は今日のレストラン、「宿屋」はホテル。当時は高級な茶屋もあったが、宿屋とは厳しく区別されて、茶屋には人は泊めなかった。大名でも泊まるところは「本陣」、休憩は「茶屋」。それが「本陣茶屋」となるのは明治の中頃で、昭和の初めごろになって、茶屋と宿屋を兼ねる「割烹旅館」というのが出る。
「蓮華を食べるとは…」
インドからヨーロッパ、エジプトにかけても、「蓮華」は高貴な植物であったが、日本人は、なんとそれを食用にしているのを目にして、バードは驚いた。関東では、米を作るには深すぎるところには、皆、蓮が作られていた。
蓮の研究で有名な大賀一郎は弥生の遺跡から出た蓮の種を栽培して「二千年蓮」と命名したが、後に批判されその言葉を使わなくなった。これに似た種に「妙連」があり、千葉県辺りの湿地帯に野生していた。そして次第にその茎が食用になったというのであるが、バードには信じられないものだった。
みそ汁とお茶漬け
茶屋での休憩で、車夫は足を洗い、口を漱ぎ、ご飯と漬物、塩魚、そして、「ぞっとする匂いのスープ」(みそ汁)の食事をした。関東から東北にかけてはみそ汁、漬物は当たり前の食事であったが、ヨーロッパ人には違和感の強い匂いであった。
もう一つ。どの茶屋にも清潔な木製、漆塗りの御櫃があり、注文の場合を除いては、御櫃の冷たいご飯に熱いお茶を注いで食べる。
その熱湯をかけたご飯を一気に掻き込んで食べるのを見て、バードは仰天した。
日光・金谷旅館に宿泊
当時の村や路傍に住む人々は非常に貧しい生活を強いられていたが、一方では裕福な上流階級もいた。金谷旅館もその一つだった。そこに至る宿屋は、破れた障子の穴からたくさんの眼が覗いて、彼女はプライバシーを保つのに苦労したが、高級な金谷旅館は、そういう気分を吹っ飛ばしてくれた。
バードは、金谷旅館の風格ある建物、日本の上層階級の趣味の良さ、行き届いた邸内や庭、洗練された日本式のもてなしを満喫、感心し、大いに満足した。そして、無類の工芸技でもって造られた日光東照宮を見上げ、圧倒された。
アジアのアルカディア(桃源郷)温泉地・米沢盆地
バードは米沢盆地をエデンの園のようだと絶賛している。温泉が湧き、作物は豊富、人々は圧迫のない自由な生活を楽しんでいるように見えた。立派な宿に宿泊して、何もかもがバードには興味津々で、実に細かく観察し、人々を質問攻めにした。宿の女将は、宿が創立300年以上だと自慢げに語った。
日本の温泉宿には、鎌倉時代から続くものもあるそうだが、自然の恵みを頂くのだから儲け過ぎてはいけない、というのが、宿を長く続ける秘訣であるらしい。
旅路が進むにつれ、彼女の好奇心は、日本人の「教育」に及んだ。
日本の学校
午前7時に太鼓が鳴って、村の子供たちを学校に呼び出す。学校の建物は、故国(英国)の教育制度に比べて決して劣らない。
壁には立派な地図が掛けられている、先生は25歳くらいで、黒板を自由に使用しながら、生徒に素早く質問していた。英国と同じように、最良の答えを出した生徒がクラスの主席となる。
貸出し図書館
村の女たちは、本を借りて恋愛小説や昔の英雄女傑の物語を読んでいた。貸本屋のことである。大正時代まではどこにも貸本屋があったが、明治の辺鄙な村にも貸本屋があったということである。
女たちは手引書で生け花を学び、三味線も弾く、などいろんな教養を身に着けている。バードはそのような日本女性を「妖精のように動く」人々と呼んだ。
また、各地方には案内書が置いてあることも驚きであった。これは名所案内図である。とても優れたもので、ヨーロッパにもない。内容は訪問者の詩などが入って、今のガイドブックよりも良くできていたと、宮本は解説している。
着物を手縫いする女性たち。英国夫人は縫物が恐怖の種
日本の女性は、優美に話し、行動し、動き回る。友達との茶飲み話の時以外は、よく立ち働いている。掃除、縫物、料理、畑の野菜作り。堆肥を足で踏みよい肥やしを作る(これは酷い皮膚病の原因ともなる)。
日本の女性は自分の着物を縫う技術を教えられている。英国夫人にとって、縫物は恐怖の種である。日本の着物、羽織、帯は並行する縫い目を仮縫いし、洗うときには、バラバラにほどいて、少しの糊で硬くしてから板の上に伸ばして、干すのである。
薬を分け与える
現代日本社会は世界で最も清潔な国として知られているが、百年前は貧しく、衛生面、薬など医療体制は極めて劣っていた。
バードは長い旅路で頻繁に病で苦しむ貧しい人々に遭遇する。そのたびに、彼女は持参した薬を分け与えるが、それには限界があること。絶えず着物を洗濯し、清潔にすること。これよりほかに病気を予防することはできないと、村人を説得する。当時の村の人々は一枚の着物を着つぶしていた。
お風呂に入ることも無かった。一枚の布団には家族全員がくるまって寝た。そこはまた、害虫のたまり場になり、それが病気を引き起こすといった悪循環の中で生活していたのであった。
同じ日光市内でも、小佐越は非常に貧しかった。バードはそこでも、重労働で打ちひしがれ、身体のあちこちに腫瘍ができた男たち。ひどく貧しく食べ物も乏しく、不潔で、ひどい皮膚病に罹って苦しむ女子供を見た。
子供たちは、嘆かわしいほど汚くてシラミがたかり、虫さされで皮膚を掻きむしり、眼炎に苦しんでいた。女たちは、過酷な労働と焚火の煙で顔は歪んでいた…薬欲しさで群がってくる子供たち。
のどに魚の骨が刺さって一晩中泣き叫ぶ子。その子を抱いて憔悴して訪ねてきた母親。バードは子供の喉を覗き、ピンセットで骨を取り除いた。子供は、苦しさから解放されて泣き止み、母はその場に座り込んで寝落ちした。噂を聞きつけ、ゆく先々で、バードの周りには薬欲しさの村中の人が集まってきた。
北海道・平取のアイヌ村では、重症の気管支炎に苦しむ子供にクロロダイン(麻酔鎮痛薬)を与えた。その子は死んだようになり、バードは自分が殺したと思われないか心配になった。
最後の望みとしてブランデーと栄養剤を与えると、回復の兆しが見えはじめ、数日後に意識もはっきりしてきた。酋長はじめ村人は心からバードに感謝の意を表した。
しかし、その時に通訳の伊藤が見せた日本人特有のアイヌ人への強い差別意識に、バードは衝撃を受けた。(続く)
【参考文献】宮本常一が書いた「イザベラ・バードの旅『日本奥地紀行』を読む」(平成14年、講談社オンラインブック)