「コロニア消滅論」を越えて
デカセギブームが始まった90年代から特に「コロニア(日系社会)空洞化論」「コロニアが消滅する」という悲観的な予測が何度も叫ばれ、本紙にも繰り返し掲載されてきた。そんなことを叫ぶ声すらも枯れてきたのが現状だ。
この18日(木)は、ブラジル日本移民113年を祝う日だ。だが長期化したパンデミックに苦しむ中、日系団体はオンラインを中心とした活動しかできない状況にある。パソコンが苦手な高齢者には日系社会が今どうなっているのか、まったく分からない不安な状況になっている。
その中で、サンパウロ人文科学研究所の『多文化社会ブラジルにおける日系社会の実態調査―日系団体の活動状況フィールド調査からその意義と役割を探る』報告書(https://nw.org.br/report/)を読んで、心を洗われるような気分になった。
その「調査の目的」には、次のように問題提起がされている。
《当時(註=コロニア消滅論が盛んに叫ばれていた頃のこと)思い描かれていた日系社会像とは違う形になった、あるいは想像外の変貌を遂げた、という意味では、すでに元の日系社会は「消えている」と解釈することもできる。サンパウロのような複雑な構造でしかも人の動きが流動的な大都会においてはその姿も見えにくいから、「ない」と見る向きもあってしかりだ。
しかし、地方都市においては、日系社会というものの存在が明確であり象徴的にわかりやすい姿で存在している。現地に足を運べば歴然としていることであり、その事実は無視できない。日系社会は、サンパウロ市が代表とする考え方が主流になってしまった現在、その中央的な見方と、その他の真実の姿とのギャップを感じることがしばしば起こった。一般論で語られるものに違和感を感じずにはいられない現実だ。しかし、サンパウロで語られる日系社会像は、地方から始まった動きの結果である。
地方で起こっていることを一種の日系社会の縮図あるいは見本と考え、調査することで日系社会全体の姿が具体的に見えてくるのではないかと考えた》(2頁)
事実、一世の高齢化と共に、いわゆる「コロニア」が日本語世界からポルトガル語世界に移行したために、邦字紙からはその活動の実態が見づらくなっている。かといってポルトガル語のコミュニティ紙がその分、ページ数を増やしてきた訳でもない。
「コロニアが消滅に向かっているのか」というの実態を知るためには「増えたのか、減ったのか」を知る必要がある。だが、肝心の「数字を把握する」という一番大切な作業が今まで行われてこなかった。それを補うのがこの人文研調査だ。
地方の会館にこそ「日系社会の魂」がある
さらに同「調査の目的」には、こうある。
《これら団体(註=地方の日系団体のこと)が、現在もブラジルにおける「日系社会」のけん引役、核であることは間違いない。これほど重要な役割を担いながら、日本人移民百余年の歴史の中でこれら団体の実態が把握されてこなかった。
街で誰にでも知られている存在である〝カイカン〟とは何なのか。本調査は、それら団体の規模や活動などを調べることで、日系の果たしている役割や功績、それぞれの地域のブラジル社会における存在意義、また日系自身がそれをどう舵取りして行こうとしているのかの意識を知ろうとするものである。
そのデータをもとに、新たな日系社会の現状を確認すると同時に、今後の日系社会がどのような方向性をとるべきなのか、どうあるべきなのか、日系人自身が考えるきっかけとなるものとしたい》(3頁)
これを読んで、涙が出そうになった。地方の祭りなどを取材に行く際、聖市のバラ・フンダ・ターミナルなどから夜行バスで出発して、朝5時時過ぎに地方に着くことが多い。「まだ誰もいないだろうな」と思いながら、そのまま現地の会館へ直行すると、すでに現地の婦人部が一生懸命に料理の準備などをしていることが多々あった。
「記者さんサンパウロから来られたんか。まあ、カフェでもやらんかね」と言われて、湯気の出るカフェとサンドイッチをいただいてしばし談笑する中で、歴代の婦人部会長がいかに団体に尽くしてきたかという献身譚をお聞きすることがあった。
今思えば、「イベント自体の話よりも、そのような何気ない会話を記録して、記事にしておけばよかった」と後悔することがたびたびある。イベント中、婦人部は裏方に徹し、記者が帰るときもまだ皿洗いなどしている姿を見たものだ。開会式で挨拶するお歴々ではなく、移民史の正面舞台には出てこない裏方の皆さんこそが、本当の立役者なのだ。
地方のそのような会館を取り巻く家庭環境で育てられた日系子弟が、聖市の大学で教育を受けて立派な就職をし、定年間近になってから日系団体に戻ってくる。親は爪の先に火を灯すような生活をして、子供を聖市の大学に行かせる学費や生活費を作った。その犠牲の上に、サンパウロ市近郊の日系団体は成り立っている。
だから地方に取材に行く度に思うのは、「日系社会の魂は地方に宿っている」という感覚だ。
聖市の主要日系団体のトップは何かと日の当たる舞台に立つことが多い。だが、実際にはあまたある地方会館の活動があるからこそ、「ブラジル日系社会の代表」という時に存在感が出る。コロニアの原点は地方であるにも関わらず、「地方の会館を一軒一軒訪ねて回って話を聞く」という調査は今までなかった。
だが、ついに全伯の会館を全て回って聞き取り調査をするという、5年がかりで日系団体を調べた前代未聞の報告書が出た。その完成版が4月20日からサイトで無料公開中だ。その中から幾つかのトピックスだけを紹介したい。詳細は実際にアクセスして見てほしい。
これほど大がかりな調査は珍しい。プロジェクトチームの責任者は、細川多美子、坂口律子、宇都宮スエリー3氏。日本財団が協力している。
約200団体が閉鎖・休止中という悲しい現実
「全伯に日系団体は幾つあるのか」との質問に対し、従来は漠然と「400団体以上」などと言ってきた。この調査10頁によれば、調査に対して何らかの組織対応ができた団体は、452団体と明確にされた。
州別分布をみると、サンパウロ州が246団体と断トツ。2位がパラナ州の72団体、3位がリオ州の18団体、4位は南麻州16団体、5位にミナス州14団体、6位にバイア州の10団体、7位がサンタカタリーナ州の9団体、8位はパラー州と南大河州が8団体となっている。
世界広しといえども、これだけの数の日系団体が活動している国は他にないだろう。
だが、注目したいのは「閉鎖または休止中」だと判明した日系団体が198もあることだ。約450団体が活動をしていることは朗報だが、約200団体が停止していることの意味は重い。そして、この調査の後にパンデミックが訪れた。コロナ禍が過ぎ去っても、450団体の2、3割の活動が再開されない可能性がある。
ただしここに数えられているのは、いわゆる「地方文協」的な日系団体だけ。県人会組織は入っていない。だから加えて47県人会と県連、さらにその県人会支部を入れれば、少なくともさらに計150以上の団体が実際にはある。また日本語学校、カラオケや茶道・生け花などの文化団体、各種スポーツ団体などもあり、「450団体+300団体」と考えてもよいのではないか。
ポルトガル語になったKaikan
日系・非日系を問わず、地域おける日系団体の愛称で一番多いのが「Kaikan」という調査結果は興味深い(19頁)。一世たちが「今晩、会館で集まろう」などと使ってきたKaikanという言葉が、そのままポルトガル語になって残った形だ。
創立年に関して、現存する最も古い日系団体は、1913年創立のAssociação Nipo Brasileira de Bairro da Raposa’(レジストロ5部)だということも分かった(22頁)。
第1回笠戸丸移民のわずか5年後、コーヒー農園で働く農業労働者が中心の移民初期に、永住を目指した本格的な移住地建設が始まった。東京シンジケートがレジストロを含むイグアッペ植民地建設や入植を開始した年に生まれた団体が、今も有る。これは日系社会全体の誇りだ。
戦前から戦中に創立されて現在まで残っている古参団体は80で、全体の19%。大半を占める344団体(81%)が戦後に生まれた。戦前にはもっと多くの団体があったが、戦中に敵性国民として活動を停止させられ、そのまま消えていったのだろう。
興味深いのは、2000年以降に23団体が発足したことだ。二世、三世を中心にして日本移民百周年での盛り上がりを背景に設立されたという動きのようだ。元々は一世が言葉や文化の違いの不便さを補うために作った日系団体が、二世らの世代になっても自分たちの日系アイデンティティを補強するような別の意味で必要とされ、日系団体が世代交代したことを端的に示すものだ。
また一番敷地面積が広いのが、トメアスー文化農業振興協会で5・3キロ平米だったのも驚いた点だ。1キロ×1キロの土地5・3個分だから広い。同地の入植は1929年。現在ではかなり町になっているが、入植当時には完全な密林、それに故に地価は安かったから広く買えた。
2位が平野植民地の2・2キロ平米で1915年創立。こんなところにも、日系人が古くから国家建設に関わってきた伝統が感じられる。
調査が掘り起こした貴重な歴史
日系人にとってKaikanは、ブラジルにおける自分たちの「家」「居場所」だ。422団体中、392団体(92%)が不動産を所有している(23頁)。そんな地方団体の日系シンボルとなっているのは「鳥居」だ。同調査によれば全国には150基以上あるという。日本以外では最大の〝鳥居大国〟だ。
《歴史的事実として付け加えておきたいのは、第二次世界大戦の際に日本人名義の不動産がブラジル政府に接収されるおそれから、一時的に非日系ブラジル人に名を借りて所有者や会長として登録、戦後そのまま返してもらえたという美談があり、少なくとも5カ所でそのような話を聞いている》(24頁)というのは、この調査が掘り起こした貴重な歴史だ。
とはいえ、戦時中にサントスから6500人の日本移民が24時間以内の強制立退きを受け、不動産をタダ同然でたたき売らざるをえず、日本語学校も接収された。ブラ拓も消滅し、リンスや平野植民地でも戦時中に接種されて返されなかった土地があったと聞く。サンタクルス病院にも連邦政府の介入が入り、日系社会に戻ってきたのは戦後半世紀近く経ってからだった。
そのような歴史の中だからこそ、コチア産業組合や南米銀行しかり、ピラチニンガ小学校(旧大正小学校、現在の文協の敷地)など、いったんブラジル国籍者名義にして返してもらえたところには心から感謝し、歴史に残すべきだろう。
Kaikanの活躍でブラジルが親日国家に
この調査の「まとめ」(89頁)にも感心させられた。《調査に赴くときに、所在地を探すために携帯アプリの道案内を何度となく使った。ポルトガル語によるナビゲーションで、ブラジル国内で〝Kaikan〟と入力して検索すると、全国に散らばる日系団体がヒットする。正式名称ではないのに、地元での通称でちゃんと道案内が表され、意外にも簡単に目的地に到達することができた。
路上でもへたに「Associação japonesa(日系協会)はどこか」と聞くより、「Kaikanはどこか」と聞く方が通じやすく、所在地も簡単に教えてもらえるということに何度も遭遇した。地域に置ける存在感、親近感は想像以上に高いという事実を目の当たりにした》と書かれている。
締めくくりとして、《ブラジル人の目から見たときに、具体的イメージとして日本人(日系人)の集団が「コロニア・ジャポネーザ」であり、象徴的な姿が「Kaikan」なのだろうと思われる。そういう意味でブラジルには実体としての日系社会が400以上存在していることになる。移民社会ブラジルでも、他にそれだけの遺産を持つ民族はいない。110年を経て築かれたこの精神的文化色の濃い日系ネットワークは世界でも貴重な存在といえるだろう》と結論づけている。
同調査によれば、約2千人以上を動員する日系団体の「日本祭り」的イベントだけで、全国では88件に上る。うち市公式行事に認定されているのは約3割。会場の多くは会館だ。全伯で開催される盆踊りだけで138件もあり、地元非日系人も参加することも多い。
このような全伯450カ所以上に散らばるKaikanが、大なり小なり行う日本文化イベントが積み重なって、ブラジルを親日国民にしているのは歴然としている。
全会館訪問は、本永群起さん以来の快挙
この報告書にある日系団体の分布図(http://nw.org.br/sistema/showMap_cj/)を見て、改めて思った。圧倒的に集中しているサンパウロ州が、一番団結がないのではないかと。聖州では連合会だけで15もあるが「聖州連合会」はない。246団体の代表が集まったのを見たことがない。
ブラジル日本文化福祉協会は「ブラジルの代表」という肩書きをもらっており、全伯の連合会をつなげる会議をしているのは立派だ。だが、足元の聖州をまとめる役割がおろそかになっているいないだろうか。
例えば、パラナ州では大きな祭典があると、72団体全部を祭典責任者が訪問して寄付集めを依頼するし、毎年総会の度に皆が集まる。だが、サンパウロにはそのような機会はない。
コラム子が知る限り、日系団体の全会館を訪ねて回ったのは、終戦直後の故本永群起さん以外にいないのではないか。《終戦直後、戦後コロニア再生の秘話――本永群起さんに聞く=「山本喜誉司の特命帯びて=地方1千カ所を回った」》(https://www.nikkeyshimbun.jp/2008/080212-61colonia.html)にあるように、本永さんは1958年の移民50年祭の下準備として、当時勝ち組と負け組に二分していた地方の日本人植民地を全てまわり、統一組織を作るように説得した。
この時には全伯に1千を超す日系団体があり、1956年前後に2年半かけて片っ端から回ったという。現在ではそれが半分以下になっている。日系団体の分布図を見ながら、全会館を訪ねて回るという偉業は、本永さん以来、この人文研の調査が初めてではないかとしみじみ思った。
残念なことに、この調査報告書は紙に印刷されていない。できることなら紙に印刷をして、一世に配布できる手立てがとれないかと切に思う。
そして、この報告書のポルトガル語版を早く公開し、幅広い議論の土台になるようにしてほしい。(深)