若者の間ではあのハボ・デ・ガーロが流行っていたにもかかわらず、彼らはいつもコーヒーだけを飲み、あの面白い、陽気なプログラムの演出に向かうのでした。あの頃から実に風変わりな方達だったのを覚えています。
第13章 霊魂の声
仕事に専念していると時が過ぎるのも感じないのが事実です。二十歳になってすぐに私は結婚しました。特に女性にとっては、結婚式は母親に伴われて準備をする最高に幸せな儀式です。
その時もまた父が母親役を果たし、私がウェデイングドレスを選びに行った時には進んでお伴をしてくれました。娘の人生で大事なイベントだということを認識してくれていた父は、自分も参加したいと思うのでした。
父はいつも私たちに母親の不在を感じさせないように色々と工夫するのでした。
結婚して間もなく、娘のイヴォーネ・えつ子が生まれました。イヴォーネは赤ん坊の頃から活発で賢く、3歳になる前にアルファベットを全部覚えていました。近所にブラジル歴30年の日本人のおばちゃんがいましたが、イヴォーネがその方にアルファベットを教えました。
おばちゃんは2歳そこそこの子供に読み方を教えられるなんてと恥ずかしがり、イヴォーネと一緒にデパートへ行き、ポルトガル語の教科書を買い求め、一所懸命勉強を始めました。何か月もたたないうちに彼女は新聞を読めるようになるまで上達しました。
そして、それは2歳の子がアルファベットを教えてくれたおかげだといつも言うのでした。
また、3歳の頃でした。イヴォーネは近所にお住いの音楽の先生のおかげで音符を全部知るようになっていました。
5歳になったときには、その音楽の先生がイヴォーネを学校に連れて行くようになりました。イヴォーネはどんな授業でもよくついていくことができ、8歳で小学校を終わらせ、卒業証書まで頂きました。でも結局2年間泣き寝入りし、待つしかありませんでした。中学校には11歳にならないと受け入れてもらえなかったのです。
その間、私は男の子にも恵まれたのですが、まだ小っちゃいときに小脳炎で神様の元へ戻ってしまいました。
イヴォーネがまだ5歳のころでした。隣にネーガと呼ばれていた女性が一人暮らしをしていましたが、毎日午後からイヴォーネにタトゥジーニョというお酒を買ってくるようにと頼んでいました。
ネーガはとても痩せていて、いつも咳をしていたので周りからは結核だといわれていました。友人もいなくて、誰一人彼女に近づくものはいませんでした。お酒を飲んではたまに転げそうになりながら庭で歌うのが日課でした。
いつものようにお酒を買って戻ってきたある日の午後、イヴォーネが、「おばちゃんが病気だよ」、と大声で叫びながら走ってきました。見に行くと、ネーガが冷たいセメント床の上で倒れていました。