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【日本移民の日2021年】《記者コラム》すべては「ふりだし」に戻るのか=8年に及んだ「社会闘争」に終止符?

2013年6月20日、サンパウロ市のパウリスタ大通りで行われたデモの様子(Marcelo Camargo/ABr, via Wikimedia Commons)

 全世界的に注目された2013年6月のサッカー・コンフェデレーション杯での民衆の抗議運動から8年。あの当時から国民は既存の政権に代わる「新しい政治」を求め、それは選挙によって手に入ったように見えた。だが、結局それは「幻想」にすぎなかったことが自覚されつつあり、「コンフェデ杯以前」の世の中に向けて戻る兆候を見せはじめている。この「激動の8年の正体」とは一体なんだったのか。これに迫ってみたい。

「2013年の動乱の正体」は何だったのか?

 「理由なき反抗」。2013年のコンフェデ杯での国民の動乱を称するには、これが最もふさわしいものであった。
 ルーラ政権期よりは下がったとはいえ、ジウマ政権においても経済はまだプラス成長ではあったし、ブラジルやジウマ大統領のイメージも国際的にはポジティブにとらえられていた。そんな中であのデモが起こってしまった。
 ことの発端も聖市地下鉄の料金値上げだったが、そういう主張の割にデモの参加者に本当に生活に困っている貧困者の姿はほとんど見受けられなかった。同時期に起こった、トルコのエルドアン大統領の独裁体質、イスラム教義の強化に反対したデモとはずいぶん様相が違った。
 今から振り返るにあれは、中・上流社会の人たちによる労働者党(PT)政権に対する、ある種の「妬み」の感情に近い反抗だったような気がしている。PT政権ではこれまでの政権以上に「マイノリティ」が大事にされ、マスコミもそれを煽っていた。女性や有色人種、性的少数者がメディアでは重宝され、大学でのコッタ(黒人への割り当て)や同性愛者の結婚、住居を持たぬ人たちの違法占拠などがよくニュースになっていた。
 それとは対照的に、裕福な人たちや白人が社会的なスポットライトを受けることは少なくなっていた。ブラジルの人種差別は比較的少ないと言われ、誰も好んで差別主義者になろうともしない。だが、今振り返るに「妬み」程度ならあったかもしれない。
 加えてこの頃、国内ではカトリックよりも保守的な福音派キリスト教の信者が急増していた。これがPTの推し進める少数派擁護への不満を募らせていた側面はあっただろう。
 こうしたある種の保守派のルサンチマン(憤りや怨恨)が、「政権の成功の誇示」にも映ったような国際スポーツ・イベントで怒りを爆発させてしまったのだろう。彼らは、GDPで6位まで行っていたPT政権を攻めるのに、彼らの弱点であった「保健」「教育」の弱さを攻撃して2013年を終えていた。

最初は「不正撲滅」のためのラヴァ・ジャットも

 2013年の動乱の後、翌14年からラヴァ・ジャット(LJ)作戦がはじまった。ペトロブラスの元役員や政治家が、同公社の事業契約に絡んでリベートを受け取っていた大型贈収賄工作が、企業関係者の報奨付き証言(司法取引)によって次々と暴露されていき、そのうち「ブラジル史上最悪の汚職スキャンダル」となった。
 ここで台頭してきたのがセルジオ・モロ判事で、次々と汚職を裁く様が好まれた。それをブラジルの主要マスコミが持ち上げ、アメリカまでもが称賛した。
 ただ、ラヴァ・ジャットを推し進めていたのが、国内で最も保守的な州の一つとして知られるパラナ州で、モロ氏が当時の保守派最大党の民主社会党(PSDB)と結びつきが強く、同州検察局のLJ作戦主任のデルタン・ダラグノル氏が熱心な福音派であったことから、比較的早くから「偏り」は指摘されていた。
 そして、LJ作戦のカラーが変わり始めたのは、検察庁パラナ州支部がルーラ元大統領を強引にペトロブラス汚職の組織犯罪首謀者にしようとした頃からだ。ここからはLJ作戦の性質が、「政界全体の浄化」から「打倒PT」的なものにフォーカスされすぎるようになってしまった。それが結果的にジウマ大統領の罷免を招いたように見える。

2016年12月4日、ラヴァ・ジャット作戦を応援するデモがパウリスタ大通りで行われた様子(Wilfredor, via Wikimedia Commons)

結局、「極右」に傾いても問題なかった?

2016年3月17日、ルーラ氏(左)と当時のジウマ大統領(José Cruz, via Wikimedia Commons)

 PT政権崩壊後、「ブラジル社会の変質」に拍車をかけることが相次いで起こった。ひとつは2016年11月のアメリカ大統領選でドナルド・トランプ氏の極右政権が誕生したこと。そして2017年5月のJBSスキャンダルで、穏健保守政党・PSDB党首で2014年大統領選次点のアエシオ・ネーヴェス氏の失脚。これでブラジル社会が一気に極右に舵を切ってしまったのだ。
 ジャイール・ボルソナロ氏が大統領候補として人気が出はじめたのはこの時期だった。だが当初、マスコミは「いくらなんでも、このような差別主義者を選ぶほどの分別のないことを国民はしないだろう」と読んでいたふしがあったが、国民はそうではなかった。
 ボルソナロ氏に対する女性や黒人、先住民、LGBTへの差別発言を批判する報道があっても、彼には悪影響がなかった。それを「左翼の戯言」とするネット言説の強化がボルソナロ氏のネット部隊によって行われるようになっていたからだ。そして、その方がむしろ、増加を続けていた福音派の人々にも都合が良かったのだ。
 そして、それはLJ班も同様だった。ルーラ氏をペトロブラス犯罪と結びつけることで18年の大統領選出馬に歯止めをかけ実刑にまで追い込んだ。セルジオ・モロ判事は、ルーラ氏の一審で有罪判決を出しただけでなく、大統領選の際にもルーラ氏の代理で出馬したフェルナンド・ハダジ氏が不利になるような元PT閣僚の、のちに「証拠なし」に終わったと判明したPTの新たな大型汚職をほのめかす証言公開の許可を、投票日の直前に出すなどボルソナロ氏の当選に貢献した。そのままモロ氏はボルソナロ政権の法相となった。

幻想に終わった「良き市民の政治」

LJ作戦判事として名を挙げたモロ氏(右)だが、ボルソナロ政権の法相に就任。結局は大統領と決裂して、自らの評価も下げた(Palácio do Planalto, CC BY 2.0 <https://creativecommons.org/licenses/by/2.0>, via Wikimedia Commons)

 「シダダン・ド・ベン(良き市民)」と言う言葉を、ボルソナロ氏の大統領就任当時、よく耳にした。ボルソナロ信者の自称のことだ。彼らとしては「正義を愛する正直ものの時代が到来した」。そんな気持ちだったのかもしれない。
 だが、それはボルソナロ政権1年目で早速裏切られた。2019年6月、ハッカーによる携帯電話の盗聴から、セルジオ・モロ氏やデルタン・ダラグノル氏のLJでの実態が明かされてしまったのだ。
 そこには検察と癒着して指図まで行い、汚職政治家を選り好みするモロ氏の姿や、ルーラ氏のペトロブラス汚職との関連に自信がないダラグノル氏の姿が暴露され、LJの「正義」「公正」のイメージが大きく揺らいだ。それはルーラ氏の釈放にさえつながった。
 加えてボルソナロ氏も、長男が幽霊議員秘書の給与キックバック疑惑や、ミリシアとのつながりを指摘された上、検察に起訴までされ、次男は大統領のネット部隊を率いてフェイクニュースを大量拡散している疑惑を持たれ、三男は軍政復古を望むような暴力的な極右論展開や中国との国際関係を悪化させる言動で問題となった。
 そして大統領自身も、味方だった政治家や軍の大物たちと対立して袂を分かち続け、三権分立や民主主義を軽視する発言を行い、あたかも軍が自分の掌中にあるかのような態度をとった。
 さらには、自らの罷免を避けるために、「汚職の温床」として嫌っていたはずの議会の中道勢力「セントロン」に接近した。そこでの最大政党「進歩党」はLJで最も捜査対象を出したにもかかわらず、なぜか罰せられていない政党であり、ボルソナロ氏自身が最も長く在籍した出身政党だ。
 「これが『良き市民』が求めていた政治だったのか」とも思えるし、ボルソナロ一家も、セルジオ・モロ氏をはじめとして、かつては熱烈に自分たちを支持した政治家や軍人たちと喧嘩別れを繰り返した。
 だが、それでも支持率は30%を超えていた。ここまでのことがありながら、今も底堅い支持があるのは、その支持の理由が「汚職撲滅」などではすでにないことも推して知るべしだった。

ついにルーラの復活まで

 だが、ボルソナロ氏や彼の信者たちにありがたくない事態は次々と襲いかかった。
 20年11月にはトランプ氏がアメリカ大統領選で落選。これでボルソナロ氏は極右的言動の後ろ盾を失い、国際政治の中で孤立してしまった。
 さらに2021年3月から4月にかけてはルーラ氏がLJでの裁判結果を無効にされ、大統領選への出馬が可能になった。セルジオ・モロ氏は最高裁から「偏った判断をした」との烙印を捺され、かつての「ブラジルの救世主」のイメージも失墜した。
 5月からは上院でコロナ禍の議会調査委員会(CPI)が進行中。死者が世界第2位の50万人に迫る中、ボルソナロ氏が効用のないクロロキンの治療薬承認に奔走し、ワクチン提供の申し出を半年以上無視していたことも明らかとなっている。
 今、ボルソナロ政権の支持率は25%を割り、大統領選はルーラ氏有利に進みつつある。
 2013年6月、後に自分に味方する動きとなったサッカーのコンフェデ杯へのデモが始まった。その8年後の6月である今、ボルソナロ氏自身が後押ししたサッカーのコパ・アメリカは、国民や選手から強い反感を持たれてデモまで行われているのは、なんとも皮肉なふりだしへの戻り方だ。(陽)