私は日本柔道史上最強を謳われる木村政彦先生のことを18年かかって取材し、一冊の本を10年前に上梓した。その物語の大きな山場こそ1951年にマラカナンスタジアムで戦われた木村政彦対エリオ・グレイシーの試合である。
『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』(新潮社)という長い題名のその書籍は、軽薄短小のこの時代に百科事典のように分厚く高価で、しかも歴史から忘れられていた木村政彦を扱ったものなので出版界からは「売れるわけがない」と言われた。
しかし増刷に増刷を重ね、ハードカバーだけで28刷という記録的な売り上げとなった。それはこの本が単なる柔道の話ではなく、木村政彦という主人公を通して一緒に世界を旅し、戦前戦後の歴史を追体験するような感覚を読者が得られたからであろう。
米国カリフォルニア州にグレイシー博物館という記念館があって、エリオが木村政彦に敗れたときに着用していた柔術着が一番目立つ場所に誇らしげに飾ってあるという。70年も前に戦われたこの試合はグレイシー一族にとって単なる敗北ではなく、誇りにまで昇華されている。エリオだけではない。現在世界中で隆盛のMMA(総合格闘技)の選手たちにも畏敬をもって語られる伝説の試合だ。
当時、エリオ・グレイシーはボクサーやレスラーなど様々な格闘家と戦って連戦連勝するブラジル格闘技界の英雄であった。
コロニアの日系柔道家たちもこぞって倒しにかかるがグレイシー側が唱える完全決着、すなわちタップ(参った)させるか絞め落とす(失神させる)まで戦う過酷なルールに対応できず、ことごとくエリオに惨敗した。このルールだといくら投げても講道館柔道のように「一本勝ち」とはならず、そのまま寝技戦にもつれていくので、グレイシー柔術の独壇場となってしまった。
唯一互角に戦えたのは古流柔術出身で金光弥一兵衛(旧制六高師範)の直弟子だった寝技師の小野安一ひとりだ。しかしその小野も2度戦って引き分け、エリオの牙城を崩すことはできなかった。
柔道宗主国の日本人がまったく勝てないのである。コロニアの日系人たちの悔しさは頂点に達していた。しかも当時、日系人たちは第2次大戦で日本は勝ったと信じる「勝ち組」と、負けたことを正しく認識する「負け組」に分かれていた。この2つは血で血を洗う争いを続け、多くの死傷者を出していた。混乱する日系人たちの心をまとめるためにもエリオを倒すことは日系コロニアの至上命令となっていた。
そこへやってきたのが本国日本において戦前戦後を通じ15年間不敗のまま現役を引退、当時34歳の男盛りだった木村政彦一行である。山口利夫、加藤幸夫という実力者2名を連れての訪伯であった。
木村は体重85キロと柔道家としては決して大きくはないが、強豪ぶりと荒々しい柔道スタイルから「鬼の木村」と謳われた。立っては相手が後頭部を打って失神する強烈な大外刈り、寝てはどの体勢からも一気に極める腕がらみで、どれほどの巨漢であろうと木村の相手にならなかった。
エリオ・グレイシーはブラジル各地で柔道のデモンストレーションなどを行う木村政彦たちに挑戦状を叩きつける。エリオにとってはさらに名を上げるチャンスだった。木村政彦は「俺が出るまではなかろう」と22歳の加藤幸夫を出した。千葉選手権大会優勝、講道館道友会優勝などの赫々たる経歴を持つ現役バリバリの現役選手だ。
加藤は試合でエリオを投げに投げて日系人たちを驚喜させるが、いくら投げても勝ちにならないこのルールで引き分けとなった。そして日を改めての2度目の対戦でエリオに絞め落とされてしまう。ブラジル紙は《絞め落とされた黄色人種》という見出しを付けて加藤が白目を剥いて失神している写真を掲載した。
グレイシー側は得意の頂点である。対する日系コロニアはいきりたった。木村一行が宿泊するホテルに押し寄せ「エリオを倒してくれ!」と連日直訴した。一行のひとり山口利夫は〝満鉄の虎〟の異名をとった100キロを超える偉丈夫だが、このルールでは自分が不利になると尻込みした。
「よし。俺が挑戦を受けよう」
木村政彦がついに立ち上がる。1951年10月23日、マラカナンスタジアムには副大統領ほか政財官界の要人も来て、フィールド内に設置された数万の観客席は超満員となった。日系人たちは木村政彦にすべてを託していたがどちらが勝っても暴動が起こりえる空気があった。日系人もブラジル人も代理戦争にいきり立っていた。ために館内あちこちにライフル銃を構える武装警官が配備されていた。
この物々しい空気のなかで木村政彦は大外刈りでエリオを後頭部から叩きつける。これで失神を狙ったのだがマットが柔らかすぎて失敗。そのまま寝技戦となった。最後は木村が得意の腕がらみを極めたがエリオがタップしない。木村はしかたなくエリオの腕を折って勝利を収めた。
しかし当局が心配するような暴動は起こらなかった。2人の全力の戦いは大観衆を魅了し、ブラジル紙は木村の強さを称え、邦字紙は敵方のエリオが参ったしない精神力を称えた。
木村政彦は1993年に日本で亡くなった。エリオ・グレイシーはその6年後、5男ホイラーの試合に随伴して念願の初来日を果たす。講道館を訪れたエリオは木村政彦の写真を見て目に涙を浮かべた。
「私はただ1度、柔術の試合で敗れたことがある。その相手は日本の偉大なる柔道家木村政彦だ。彼との戦いは私にとって生涯忘れられない屈辱であり、同時に誇りでもある」
増田俊也(ますだ・としなり)1965年愛知県生まれ。小説家。北海道大学中退。著書に『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』(新潮社)、『七帝柔道記』(角川書店)など。