江戸期の驚異的な就学率
日本人は古くから教育をとても大切にしてきました。平安時代中期に書かれた「叡山大師伝」(最澄の伝記)には「村邑小学」という村の子供が通った教育機関が登場します。
やがて、江戸時代になると皆さんもよくご存知の寺子屋が生まれます。寺子屋では、読書、習字、算数などの基礎的な知識の習得に留まらず地理、人名、書簡の作成法などの教育が総合的に行われていました。
江戸における嘉永年間の就学率は70~80%と言われており、イギリス20~25%(1837年)、フランス1・4%(1793年)、ソビエト連邦20%(1920年)など、諸外国とは比べ物にならないくらいの驚異的な就学率でした。
幕末期には、江戸に約1500校、全国では約1万5千校の寺子屋が存在しました。幕末といえば、日本人が教育を大切にしていた事を顕著に表した故事が生まれます。
そう、長岡藩の「米百俵」です。戊辰戦争で敗れた長岡藩は7万4千石から2万4千石に減収され、実収にて6割を失って財政が窮乏し、藩士たちはその日の食にも苦慮する状態であった。
このため窮状を見かねた長岡藩の支藩三根山から百俵の米が贈られることとなった。藩士たちは、これで生活が少しでも楽になると喜んだが、藩の大参事小林虎三郎は、送られた米を売却の上で学校設立の費用とすることを決定する。
藩士たちはこの通達に驚き、虎三郎のもとへと押しかけるが、虎三郎は、こう論して、自らの政策を押し切った。
「百俵の米も、食えばたちまちなくなるが、教育にあてれば明日の一万、百万となる」
日本が多くの発展途上国にODAを通じて援助を行っているのはよく知られていますが、単なる資金援助だけでは何も解決せず、問題の先送りにしかなりません。そこで日本が最も力を入れているのが学校教育支援なのです。
算数の教科書を手作り
今回はその中で、中米のホンジュラスでのエピソードを紹介させてください。
日本が海外にODAで整備した学校の数はここ10年ほどで2300校をこえていますが、いくら校舎を作ったとしてもそれが正しく運用されなければお金をドブに捨てるようなものです。入れ物としての校舎より、むしろ本当に大事なのはどう教えるかなのです。
そこで、多くの優秀な教師が青年海外協力隊員になって赴任し、現地の教師に教え方をコーチしています。ホンジュラスには58人の隊員が赴任し、延べ2万人の教師の指導にあたりました。
ここで、ホンジュラスという国について少し説明させて下さい。決して豊かな国とは言えません。一人あたりのGDPは世界で128位と下位に位置し、中米の他の国と較べても最貧国に位置します。
貧しさから犯罪率も高く人口10万あたりの犯罪発生率もおよそ154件、実に日本の140倍。その数字は統計の取れる国の中で世界1位になったことがあるほどです。
ある女性隊員は朝から職場に出勤すると同僚にこう尋ねられました。「宿舎からどうやってここまで来たんですか?」
彼女は相手が何に驚いているのか分からず普通に答えました。
「一人で歩いてきました」すると、職場の人達は大変驚いていたそうです。「女性が一人で歩いてくるなんて危なすぎる!」「命知らずだ!」
日本から来た隊員たちは現地の状況に言い知れぬ恐怖を感じました。しかし、自分たちにしか出来ない子供の教育の環境を整えることがこの国にとって最重要課題だ、と使命感を燃え上がらせたのです。
彼らはいろいろ検討した結果、算数に力を入れることにしました。ホンジュラス国民の平均修学年数は3・5年と短く、貧困地域の識字率は50%しかありません。その原因の一つに算数がネックになって小学校を中退していく生徒が多いことがありました。
日本人スタッフは教師への指導と共に、分かりやすい算数の教科書を作ることに取り組み始めました。「生徒たちに算数の面白さを分かってもらいたい」
試行錯誤を重ね、ついに日本人スタッフは新しい算数の教科書の完成にこぎつけました。さらにはそれが高評価をうけ、ホンジュラスの唯一の国定教科書となるまでに至りました。
また、ホンジュラス国内に留まらず、同じスペイン語を使う周辺の国々、グアテマラ、エルサルバドル、ニカラグア、ドミニカ共和国などに広めようと運動まで始まりました。
目を閉じて想像ください。日本人の先生たちが作った、親しみやすいスペイン語の教科書が子供達の手から手に渡っている光景を。そういう下地があってホンジュラスに行ったのが「米百俵」の物語でした。
文化大臣が「米百俵」の演劇上演を推進
まず、ホンジュラスの文化大臣が「米百俵」のことを聞き、ホンジュラス国民の前で「米百俵」の上演を熱望しました。ついには文化大臣自ら「米百俵」の台本をスペイン語に翻訳し、2003年(平成15年)、ホンジュラス国立演劇学校の教授や生徒が中心になって、文化大臣が熱望した演劇「米百俵」の最初の上演が実現しました。
果たしてこの物語は一般のホンジュラス国民に受け入れられるのでしょうか?
劇が終了し、静寂の中ゆっくりと幕が閉まり始めました。そのとき観客席から割れんばかりの拍手が起こったのです。そして、拍手はいつまでも鳴り止みませんでした。
観客の目には涙がこぼれさえしていました。青年海外協力隊員となった教師が訴え続けてきた、何よりも教育が大切だと言う価値観はホンジュラス国民とも共有できるものだったのです。
劇団による米百俵の講演回数は50回を超え、米百俵の話を知らないホンジュラス国民はほとんどいなくなりました。
マドウーロ大統領(当時)も感銘を受け、米百俵の名称を冠した100の学校建設を計画していると公言しました。そのプロジェクトによる学校建設が今でも進められています。
最後に、麻生太郎氏の外務大臣時代の演説より引用。
◎
ホンジュラスという国、日本との貿易額などわずか160億程度に過ぎません。しかし私は、有難い国だったと思います。ホンジュラスには、1998年に大災害が見舞います。
「ミッチ」という巨大ハリケーンで、人口740万人足らずの国に、死者7007人、合計61万人以上の被災者をもたらしました。
この時我が国は、自衛隊を送ります。6機の航空自衛隊C―30輸送機が太平洋を越え、物資を運びました。医師7人を含む陸上自衛隊員80人が、現地で活動しました。
これは今でこそ、当たり前の景色です。しかし、緊急医療援助で自衛隊が国外に出たのは、この時こそが初めてでした。ホンジュラスの人達は、感謝してくれました。自衛隊派遣からかれこれ10年、我々の大使が離任する時のことです。
この人は勲章をもらい、ホンジュラス国会で答辞を述べたのですが、ハリケーン「ミッチ」に言及したその瞬間でした。「日本万歳!」湧き上がった議員たちの歓声と拍手で、議場はどよめいたのであります。
わたくしおもうに、ホンジュラスは、「善意の道場」でありました。無名の日本人が善意を働こうとする、それを鍛錬してくれる現場であり、道場だったと申し上げたい。有難い国でした。(ユーチューブより抜粋)
日本の支援で100校目完成=小中高校の教育環境を整備
日本国外務省の在ホンジュラス日本国大使館サイト(https://www.hn.emb-japan.go.jp/itpr_ja/00_000064.html)には、2016年2月11日、日本の米百俵支援プログラムによる100校目の学校が建設された記念式典の様子が報告されている。以下、その抜粋。
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テグシガルパ市ハポン小学校増改修計画引渡式
2016年2月11日、草の根・人間の安全保障無償資金協力を通じた米百俵プログラム100校記念式典が、テグシガルパ市ハポン小学校で実施され、ゲバラ大統領代行(副大統領)、エスコト教育大臣、セラヤ・テグシガルパ市会議員、ゴメス外務省二国間協力課長、ギジェルモ・マルティネス国会顧問等、在ホンジュラス日本大使館より岡田大使等が出席した。
「米百俵」は、1870年、貧困に窮していた長岡藩が他藩から百俵の米を譲り受けたものの、将来の教育発展を第一と考え、食糧として消費するのではなく学校建設の費用に充てたという史実であり、現在の辛抱が将来利益となることを象徴する故事だ。2003年に訪日したマドゥーロ大統領(当時)に対して小泉首相(当時)が、この故事を紹介した。
それを聞いて感銘を受けたマドゥーロ大統領が、ホンジュラスの学校教育を充実させるための協力を日本に依頼し、100校の学校を整備する「米百俵プログラム」が開始された。
同プログラムは、ホンジュラスの100校の小中高等学校を対象に校舎の新規建設、増改修及び教育機材整備を行い教育環境の改善を図る計画であり、対象案件には米百俵学校記念碑の設置を行ってきた。今回の案件「テグシガルパ市ハポン小学校増改修計画」にて同プログラム100校目を達成した。
式典においてゲバラ大統領代行は、竹元元大使から岡田大使まで引き継がれた米百俵プログラムのお陰で国内100校の教育環境が改善されと述べ、日本政府のホンジュラス教育分野への支援に感謝の意を表した。
またエスコト教育大臣は、教育インフラ整備の他にも専門家やボランティア派遣、算数の教科書作成等ホンジュラス教育分野への日本の協力に対し、ホンジュラス210万人の児童生徒を代表して日本に感謝の意を表しました。
また、当日はハポン小学校児童による米百俵の演劇も披露され、観客の大きな歓声を受けた。