鹿児島と奄美大島のあいだの海上にトカラ列島という島々がうかんでいる。
中学生のころ、地図でそれらの島々を発見して、かぎりない空想と憧れを抱いた。南の海の島への憧れだけではない。なにしろ島の名前がすべて風変わりだった。
それらの名をあげると、まず宝島、小宝島からはじまって臥蛇(がじゃ)島、悪石島(あくせき)島、横当(よこあて)島などの名前がならんでいる。第一、トカラ列島という名前も地図には吐喝喇列島と記してあった。中学生にはむずかしい字だが、それだけに空想を刺激する字でもあった。
少年の頃にスティーブンソンの『宝島』を読んでいたから、
「あれっ! 日本にも宝島がある」とワクワクしたものだった。
ずっと後で知ったのだが、日本のトカラの宝島に海賊キッドの財宝が隠されているという噂はずっと以前から欧米にあり、ときどき新聞ダネになったり、冒険野郎たちが宝探しにやってきたそうである。
そしてスティーブンソンもその新聞記事に興味をいだいて『宝島』の構想をまとめたという。
つまり「日本にも宝島がある」のではなく、『宝島』の原型は日本の宝島そのものだったのである。
さらに、キッドが財宝を隠したのは宝島ではなく、本当は隣の横当島だという説もある。のちに私はそれらの島々を訪ねることになるのだが、まん丸くて湾のない宝島より、船が接岸するのに都合のよい湾があり、しかも無人島の横当島のほうが、海賊が上陸して財宝を隠すには都合がよさそうで、冒険野郎たちが宝島のつぎに横当島に目を付けて探したというのも頷けるのだ。
☆
吐喝喇列島は黒潮のあたる島々でもある。
狭義の黒潮、つまり黒潮の流れの本流は幅が約三十海里(五六キロメートル)である。奄美大島の西側をながれ、屋久島の手前で右折して伊豆大島のほうへむかう。だから文字通りに〔黒潮洗う〕という島は日本でもそう多くはない。トカラ列島は黒潮の流れのなかに点在している。
そういう島々にいつかは行ってみたいと思っていたので、釣り週刊誌に企画を持ち込んだところ費用の目処がついたので、毎週レポートを送るという約束で一ヵ月ほどトカラ列島と奄美大島の島々をめぐりあるくことになった。
トカラ列島の行政は十島村(じゅっとうそん)という村で、十島丸(としままる)という村営の連絡船が就航している。
それで東京から鹿児島へいき、便船をまって鹿児島に三日滞在した。雑誌に記事を書くためにトカラの資料を鹿児島で集めるためもあった。六月だった。
鹿児島の図書館で郷土資料を調べてみるとトカラというのは平家の落人が住み着いた島らしい。平家の落人部落というのは全国で200以上あるそうだが、トカラのはわりと必然性がある。
平家が滅びる8年ほどまえに俊寛が平家に謀叛をたくらんだ罪で鹿児島の沖にある硫黄島(鬼界ガ島)に流されて、かって召使だった有王という少年がはるばると訪ねていく。しかし、衰えていた俊寛はまちわびた赦免もかなわず有王に見取られて死んだ。その哀話を当時の都の人は誰でも知っていた。
平家が壇の浦で負けたあと俊寛が流されていたような遠い島なら、源氏の追手もこないだろうと鬼界ガ島をめざした平家の一団があり、それらの分派がさらに沖のトカラ列島に移住したというのである(ちなみに硫黄島には壇の浦で死んだとされる安徳帝が、じつは死なずに硫黄島で生きたという話があり、その子孫という長浜家は今日もつづいている)。
口之島
十島丸は4日に1度の運行だから、7島を全部回ると27日かかってしまう。それで口之島、平島、宝島の3島をまわって奄美大島の名瀬へ行くという計画を立てた。
6月5日夜、鹿児島を出港して、翌朝まだ暗いうちに口之島の突堤に接岸した。民宿のおばさんが軽のバンで迎えてくれた。かなりの坂を越して集落に着いた。
朝食の後、民宿のご主人が道路工事に出るというので、弁当を作ってもらって途中まで車に便乗した。島内一周するつもりだった。島の人口は179人、一周道路は18、7キロメートルあるという。
車でしばらく山腹の道を走ると、頑丈な柵があった。そこから先が野生牛のテリトリーだという。いつの頃かはっきりしないが江戸期には口之島では和牛が野生化していたらしい。それから混血しなかったから、和牛の古い系統として学問的にも貴重だという。
野生牛たちは島の南側の、よく木が茂り水も豊富な地帯に生息しているので、島人たちは島の半分を柵で仕切り野生牛のテリトリーとしている。そちらには人家もない。
私はのんびりと歩き始めた。
民宿で「車を使ってよい」と言われたが、島の空気を吸い、風景に浸るには車はいらない。
「免許証を持ってきていないし」
というと、小母さんは、
「いらない」
と笑った。
運転する技術があればよいという。正確には、免許証がいらないのではなく、見せる相手がいないのだそうだ。見せる相手というとお巡りさんだが、巡査は中之島に一人駐在しているだけで、あとの六島にはいない。もちろんパトカーもない。だから見せる相手がいない。
「お巡りさんがいないと、もしドロボーがいたらどうするの」
「島にはドロボーはおらんと。用があれば電話でお巡りさんを呼ぶけんな」
…とにかく別天地である。大きく息を吸って歩く。
私は人とほかの生物はこの地球上で平等に生きるべきだと思っている。だが実際にはなかなかそうではない。島の半分が牛、半分が人間という棲み分けをしている島が日本にあったことだけで、涙が出るくらい、なにか静かな感動がある。
しばらく歩いていくと生後3か月くらいの子牛が草を食んでいた。
道端には草が生えるから、島内一周道路は牛にとってごちそうにありつける場所のようだ。だが、さすがに野生で、どんなにソッと近づいても40メートルしか近づけなかった。茶色い牛だ。
口之島の南側には前岳(628メートル)、横岳、タナギ山などが集中していて、それらの突出を縫って進む道はハイキングコースとして素晴らしい。野牛たちが雑草を食んでいるから、あたりは手入れの良い庭園のような佇まいだ。
このあたりはタモトユリ(県指定天然記念物)の自生地のはずだが、険しい崖に咲くので見つからなかった。そのかわり大型蝶のトカラカラスアゲハが多い。濃い色のがオス、黄色が入っているのがメス、私の周りをヒラヒラと飛び、なかには道案内をするように数メートル先をいつまでも飛んでいる個体もいる。
古琉球では人間の霊魂がハビルという空想上の蝶となって現世を飛び交うと考えていたそうだが、数頭の蝶がどこからともなく現れて誘うような飛び方には、なにか、無言の存在感がある。
そして鳥のさえずりが素晴らしい。こんなに鳥の声が聞かれる場所も珍しい。直径50メートルくらいの平地の周りを半円形に崖が取り巻いている場所があった。そこはまるで円形劇場のように鳥たちの声が反響していた。
草の上に寝転がって鳥の声を聴いていた。朝が早かったせいでウトウトしたかもしれない。鳥の声に交じってモーツアルトの音楽が鳴っていた。むずかしい曲ではなく、アイネ・クライネ・ナハト・ムジク(小夜曲)だった。目覚めても、脳裏でその曲が鳴っている。
それでモーツアルトのことを考えた。
モーツアルト
モーツアルトの時代、音楽家は宮廷や教会に雇われて生活するもので、独立しては生計がたたなかった。それなのに彼はウィーンで一人の音楽家としての生活をはじめた。
はじめはいくらか良かったが、だんだん生活は苦しくなった。金がなく苦労したのにあんな明るい音楽をうみだした不思議について、伝記とか解説書などではよく言われるが、私はいくらか違う感想をもっている。
たしかに彼は借金を頼む手紙などを何通も書いていて、その悲痛な調子は読む者の胸を打つけど、借金を頼むとき、あまり余裕があるようには書かないで切羽詰まったように書くのが古来変わらぬ流儀だから、文面にあまりひきずられないほうがいいのではないか。
モーツアルトが死んだのは35歳の時だ。まだ充分に若かった。解説や伝記を書く批評家はこの若さについて見逃しているのではないか? 自分のことを引き合いにだすけど、30を過ぎてから小説が書きたくなって、それまでの仕事をやめて食えるだけの最小限の仕事をしながら小説を書いた。
海辺の村に住んで日語教師をしたり、川漁師をしたりして、一月にいちどくらいサンパウロの同人雑誌の事務所へ顔をだすのが愉しみだった。遠いから朝はやく出て夜遅く帰ってくる。バス代を捻出するのがやっとで一日中なにも食べない。
コロニア文学の事務所で水を飲むだけだ。だけど小説を書くのに夢中で、そういう境遇が辛いなどと思ったこともないし、当時の作品を読み返しても(傑作とはいえないにしても)いまの自分にはない若者らしいセンスの明るい作品がほとんどだ。
凡庸な私でさえそうだったのだから、モーツアルトのように溢れる音楽を内にかかえた天才が、貧乏やそれにともなう生活苦を辛いと思う年齢だったとは私には到底おもえないのだ。
モーツアルトが死んでしばらくするとブームが起きたことはよく知られている。とにかくヨーロッパ中が「モーツアルト氏の作品でないと演奏されない」というような具合だったらしい。
だからモーツアルトもせめて45歳くらいまで生きれば、もっと金回りのよい生活ができただろうと、崇拝者の一人として残念である。もっとも彼も奥さんも金銭感覚があまりなかったらしいから、金回りがよければよいでピーピーしていたかもしれないけど。
☆
小鳥の劇場と別れて、また歩きだした。
燃岳とタナギ岳のあいだの隘路をすぎると前方に大斜面がひらけた。傾斜が落ちていく先に黒潮の海…左手に中之島が浮かんでいる。
ああ、黒潮…。
その躍動――日本列島へ豊かさを千古の昔から運びつづけている流れ。私は胸を打たれて斜面の端にたたずみ、海のざわめきを眺めた。海鳥が乱舞している。
左手の中之島はすぐ近くに見えるが、18、5キロメートル離れている。
「あの島にお巡りさんがいる」――そう思って眺めているうちに、なんとなくおかしくなった。強い陽光が山を満たし海を満たし、眩しい、世界がまぶしい。
黒潮の海を見ながら私は歩いた。