バルガス政権の新国家支配体制下の同化政策
ところで、1930年にクーデターによって樹立されたバルガス政権は、独裁体制を強めて1937年から強力な中央集権型の新国家体制(エスタード・ノーボ)に移行し、その下で、
〈1〉ブラジル精神と国家主義の高揚
〈2〉民族の形成と統合を理念とするナショナリズム政策の推進
〈3〉国家と国民意識の統一を目指す同化政策の強化を三位一体的に推進してきた。
とりわけ③の一環として外国移民同化政策を強行してきた。14歳未満児童に対する外国語教育を禁止、初等教育教師のブラジル人への限定の諸政策は、その端的な表れであった。
しかもこの政策は、第二次大戦への参戦ともからんで、外国語教育および外国語刊行物の統制・禁止という形で具体化されたのである。バルガス政府は、「諸民族の特有の風俗・習慣・伝統に固執し、時と共にブラジル国の生命の脈動にそぐわない中核を形成するおそれのある植民地」と日本移民をブラジルへの同化を拒む存在として排斥の標的にし、あからさまな攻撃を強行するまでになっていたのである。
バルガス政府の日本語教育および日本語の使用禁止、日本語新聞、雑誌等の発刊禁止など一連の強硬措置は、日本移民たちに強い衝撃を与えずにはおかなかった。それは彼らのコロニアにおける前途と生活を脅かし、「祖国日本とのつながりを断ち切る迫害」そのものとして受け止められた。しかも、この措置は帝国大使館・領事館がすでに閉鎖・撤退している中にあって、「置き去りにされている」という日本移民のいいようもない不安と孤立感を一層かきたてずにはおかなかったのである。
このような閉塞状況の中にあった日本移民にとって、太平洋上における連合艦隊の緒戦の勝利は、まさに「神風」そのものであった。そのとき以来、「絶対不敗の皇軍」という観念は、不動のものとして彼らの頭脳と心に深く刻まれていった。
だが、「絶対不敗」のはずの「皇軍」は、実際には42年6月のミッドウエイ海戦においてすでに壊滅的打撃を受け、続くガダルカナル島攻防戦における総敗北以来、敗走につぐ敗走を重ねていた。しかし情報を知る手段を奪われていた日本移民は、「皇軍」の戦況を知るよしもなかった。いやブラジル語新聞が連日報じる「日本軍の敗走」の戦況は、彼らにとっては全くの「虚報」であり、連合国側がしくんだ「デマ宣伝」でしかなかったのである。
そして「東京ラジオ」(1938年11月から開始された日本の南米むけ放送)を密かに聞いていたある種の人物から流され、人の口から口に伝わる「大本営発表」がそのまま「事実」として人々の中に浸透していった。日本移民にとって「皇軍」は、それほどまでに絶対的であった。
日本のすべての国民がそうであったように、国家総動員体制下の軍国主義教育の徹底化の中で培われてきた「世界無比の皇統連綿の神国」における「天皇の軍隊」にたいする「忠誠心と信頼」は、ブラジル移民の場合、敵性国家の迫害の中で体験した「皇軍緒戦の勝利」の感動が、それを一層不動のものとしたといってよいであろう。
情報手段のすべてを奪われた、まさに敵性国家ブラジルの中の「日本鎖国村」的閉塞状況におかれた移民たちの胸裡に、「大本営発表」は砂に浸み込む水のように吸いこまれていたのである。それは、戦時下に置かれた日本全国国民の精神状況を典型化した縮図そのものであった。
【2】サントス事件の発生――サントス沿岸一帯からの強制退去命令
1943年7月8日、バルガス連邦政府は、サンパウロ州海岸地帯移住枢軸国人1万人余にたいして、24時間の期限をもつ立退き命令を発令した。突然発せられたこの24時間以内退去命令は、サントス市に在住していた6500余の日本・沖縄移民たちに未曾有の大混乱と苦難を強制するものであった。直接的には聖州政治警察によって強行されたこの命令は、その数日前にサントス出港間もなくアメリカ軍艦船並びにブラジルの貨物船数隻がドイツ軍潜水艦によって撃沈される事態が起き、それが沿岸一帯に在住する日・独・伊三国移民のスパイ通報によるものと断ぜられ、それへの報復措置であった。
それは、退去命令発令の直前にルーズベルト米国大統領がブラジルを訪れてバルガス大統領と会談しており、その直接の圧力の下で強行されたものと言われている。実際ブラジル政府は、1942年にアメリカ政府による在米日系人を強制収容所に連行した際にハワイから日系人を連行した時の機密資料を取り寄せて、これを参考資料にしている(注 2019年12月19日に放送されたNHKBS1スペシャル「語られなかった強制退去事件」におけるプリシラ・ペラツォ教授の発言参照)。
同年7月9日の「オ・エスタード・デ・サンパウロ」紙は、次のように報道した。「国家保安上の処断我が国の国益にとって危険である『枢軸国』国民は、サンパウロ州沿岸部並びにサント・アマーロ人造湖周辺より立ち退かされる。
保安警察当局は次の発表を行った。
『保安警察総督ヴィエイラ・デ・メーロ少佐の裁定に基づき、また国家保安上の処断として、本日、サントス及びサンパウロ州沿岸地帯よりの全てのドイツ人と日本人の退去が開始された。
家財等を携行していく者は自費により移動をなすものとし、サンパウロ市内に住居を定めるに際しても自費でこれを行うものとする。但し、移動及び住居確定には当局の許可を要するものとする。
家財等を携行せざる者は特別列車によってサンパウロへ移動し、移民収容所に一旦収容され、後日内陸部の然るべき都市に転住するものとする。(中略)
今回、この立ち退き処置を受ける者は、サントス並びに沿岸地帯に居住するもの、家長数にして約1万人に達する。なお、イタリア人に関しては、特に国家保安の観点からして危険と判断された者に限り、同様の処置の対象とされる。
また、サント・アマーロ人造湖周辺に居住する枢軸国国民もまた同様に、立ちを退きの対象とされる。沿岸部の諸郡においても、保安警察総局は同様の処置を講ずることとなし、ヴィエイラ・デ・メーロ少佐は、南部沿岸地帯の責任者としてタヴァレス・デ・クーニヤ署長を、北部沿岸地帯の責任者としてティノコ・カブラル署長を任命した。
ブラジルにとって危険と見なされる全ての分子たちの退去は、ヴィエイラ・デ・メーロ少佐の命令がアフォンソ・セルソ署長及びネルソン・デ・ヴェイガ署長によって敏速に実行に移されたため、数日中に全てが完了する見込みである。
国家保安を脅かす要因を予防排除する処置として、日本人、ドイツ人、イタリア人たちを召喚してサンパウロ州内陸部各地へ退去せしめる措置には、沿岸部に広くかつ数多く配置されているサントス警察並びに保安警察当局の検察官たちがその任に当たっている。
(前山隆編著『ドナ・マルガリーダ・渡辺』240頁―242頁より重引)
まさに6500の日本移民たちが、何の根拠も示されない「スパイ通報」の汚名を着せられて、「国家保安を脅かす危険分子」として「24時間以内退去」を「処断」するものであった。しかもそれは、事実無根の「スパイ通報」の罪をデッチ上げて、サントス在住の6500の日本人移民を丸ごと「国家保安を脅かす要因」として「予防排除」するという、驚くべき「処断」であった。
武装兵が厳重監視するなか荷物をまとめて退去
太平洋戦争勃発の只中にありながら直接の戦火にまみえているわけではなかったが、真珠湾攻撃以来の日本軍の連戦連勝を報ずる「大本営発表」を信じ「日本の勝利」を確信し切っていたブラジルの日本移民たちにとってこの退去命令は、まさに青天の霹靂であった。
その日、人々は武装兵の厳重監視の下で仕事場からそのまま家族同士の連絡も十分取れないままに、取る物もとりあえずに、家財道具の始末や商店や野菜畑の整理はもとより、着のみ着のままに立ち往生し、病人や産前産後の主婦、留守宅の妻子らもまた露頭に迷うばかりであった。人々は、軍と警察が指定する時間帯に追い立てられるようにサントス駅に集められ、退去命令の理由も行き先さえ告げられぬまま列車に押し込まれた。
行き着いた先は、サンパウロ市の移民収容所であった。6500余の日本人・沖縄県人移民家族は、1団500人ほどが鍵をかけられた列車でドイツ人移民も含めて次々と移民収容所に運びこまれた。足の踏み場もないほど人々が押し込まれ、ベットも寝具もない床の上で夜を過ごす幾日もの生活を強いられた。食事は、1日にパン1個と湯水のようなフェジョン1杯で空腹を凌ぐ囚人扱いそのものであった。しかも官憲監視下での日本語使用禁止の重圧がのしかかる日々が続いた。
このような中で、渡辺マルガリーダの日本人救済会による救援の毛布や衣類ばかりでなく、パンやサンドイッチの差し入れがなされ、人々は飢えを凌いだ。次々と送りこまれてくる日本移民にマルガルーダを中心に日本人救済会は、唯一救援の手を差し伸べたのである。
やがて沖縄県人移民を中心とする日本移民は、官憲による行き先調査が終わり次第、サントスには決して帰ってはならぬことを告げられた。サンパウロ市とその周辺一帯に親戚縁者のいる人々はそこへと引き取られた。
そして他の多くの人々は、親戚・知人・友人など同郷の人々を頼りにサンパウロ州奥地へと追い立てられた。その中には身寄りのいない人々も多くいた。
産気づく人、熱出して寝込む人、流産する人、突然奇妙な行動を始める人まで
渡辺マルガリーダは、混乱の中の移民収容所の様子を次のように語り残している。
「…履物なんかも、靴を履いている人は少なくて、ゴム底のつっかけ草履なんか履いていましてね、中には素足の人だってありましたんですよ。田舎の町や植民地に住んでいる知人などを頼って行くんですが、汽車の切符を買ってあげて、お金のない人には当座の生活費まで持たせて送り出したんです。…(中略)急に産気づく人、熱を出して寝込む人、驚きのあまり流産する人、突然奇妙な行動を始める人、気の遠くなるような混乱が続きました。ともかくこんなことが10日間続きました。サントス方面からの立ち退きは、入ってくる人、出ていく人、移民収容所では、みな記録取っておりましたから、それで数えて6500人だったと言うんです」(前記の前山隆編著244頁―245頁より重引)。
このように彼女は、目撃証人としての記録を残している。
当時サントス市は沖縄県人移民の大集団地で450家族3500人以上が在住していたと言われている。県人移民が蒙った損害・犠牲と精神的打撃は、あまりにも甚大であった。
第1回笠戸丸移民の仲宗根蒲助・カメ夫妻や石原ウシ、名嘉文五郎、仲宗根蒲、宮城加那・カメ夫妻ら、城間佐一郎、金城善助・オサ夫妻、知念仁牛も、艱難辛苦のはてにサントスに定着し築きあげてきた家財や商店、農地や馬・豚など家畜の一切と住みなれた家を追い出されて、サンパウロ市内やサント・アンドレー市、あるいは奥地のアラサツーバやアバレーやバウルーへと離散を余儀なくされた。
また宮城利三郎のように病気療養のためサントス滞在中に退去命令に直面し、いち早くミラカツー市長ジョアキンの元へと走り、ジュキア鉄道沿線一帯の日本・沖縄県人移民への退去命令適用除外を訴えこれを実現させた。しかし病に鞭打つ奔走の中で病状の悪化をきたし、翌44年12月に逝去した。
ブラジル生まれの夫人と幼い子女を残して、ただ一人着のみ着のままソロカバナ線ボツカツー市の義兄をたよって落ちのびた具志堅常松のように戦争が終わるまで家族との離散を余儀なくされた人も数多くいた。また、この大混乱の中で金城珍禄のように、道をゆく途中に日本語を話したという理由だけで、留置場に10日間も放り込まれる仕打ちを受けた人もいた。(つづく)
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★2021年7月27日《記者コラム》ブラジル近代史に残る日本移民迫害事件を初めて描いた映画『オキナワ サントス』