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特別寄稿=太平洋戦争下の日本・沖縄県人移民の苦難―――サントス事件を中心に=ブラジル沖縄県人移民研究塾代表  宮城あきら=《3》=タブーとなって歴史の闇に

 このように理不尽この上ない退去命令によって住み慣れたサントスを追放された日本移民並びに沖縄県人移民たちは、敵性国民としての様々な困難を背負いつつ、その大半の人々が未知のサンパウロ州奥地へと分散流浪を余儀なくされたのである。
 日本が戦争に敗れて無条件降伏した1945年8月15日以降しばらくして、サントスへの帰還許可が出て帰ってみると、わが家には他人のブラジル人が住み込んでいたり、壊されてなくなっていたり、借地していた農園も他人のものになり、家畜の馬も豚も全てなくなっていた。帰り着いた人々は、呆然と立ち尽くすばかりであった。
 中には近隣のブラジル人が管理して助けてもらった家族もいた。しかし、多くの沖縄県人家族は、落ち延びたサンパウロ州奥地やサンパウロ市郊外やその周辺都市近辺にそのまま居住し、日本敗戦後の新たな社会的混乱の中でゼロからの家族形成の苦難を生きねばならなかったのである。

【3】歴史に埋もれたサントス事件

 ところで、6500余の日本人移民が『スパイ通報』の汚名を着せられて24時間以内にサントス沿岸一帯から退去を強制されたこの歴史的大事件は、発生から77年の歳月が過ぎている今日においても、歴史の闇に置き去りにされ、ブラジル日本人移民史において研究されることもなく放置され続けている。

日系社会の総本山=文協の移民史研究の場合

『ブラジル日本移民80年史』(1991年6月刊)

 ブラジル日系社会の総本山と自他共に任じてきた日本文化福祉協会(文協)が発刊している『ブラジル日本移民70年史』(1980年8月刊)及び『ブラジル日本移民80年史』(1991年6月刊)、さらに『目で見るブラジル日本移民の100年』(2008年4月刊)などの諸著作には、1行あるいは5、6行の記述で済まされている。
 例えば、事件から50年近い歳月を経て出版された『80年史』には、次のように記述されている。
 「…また、年を越えて43年7月8日には、ブラジル、アメリカの貨物船がサントス出港間もなく5艘ものトイツ潜水艦に撃沈されたところから、海岸地方在住枢軸人のスパイ行為による連絡の結果とみられ、同地方居住枢軸人に対し、24時間の期限をもっての立ち退き命令が発せられ、取るものもとりあえず強制的に退去させられた約1500余の日本人を主とする枢軸人は、一旦サンパウロの移民収容所に収容された後、サンパウロ市内あるいは内陸奥地の知人をたよって落ちのびた」(149―150頁)。
 このように報道記事風に結果的かつ客観的に記述されているのみで、日本移民が戦時下にあって如何なる弾圧に直面し、如何なる困難を強いられ住み慣れたサントスを追われ、サンパウロ市あるいは聖州奥地に落ち延びなければならなかったのか、その例証一つ記録していない。
 また日本移民100年が経過した2010年7月に刊行された丸山浩明編著『ブラジル日本移民100年の軌跡』においても、『80年史』における記述がそのまま踏襲されているに過ぎない。
 それどころではない。ブラジル日本移民100周年記念協会傘下の「日本語版ブラジル日本移民100年史編纂・刊行委員会」が発行した『ブラジル日本移民100年史』(全5巻)の中の第5巻『総論・社会史編』には、サントス事件に関する叙述は皆無で一行の記録もない。巻末の年表への記録すらもないのだ。これは全く驚くべきことである。
 言論・出版など一切の自由の剥奪、コンデ街からの日本人の退去命令、資産凍結令などについて記述されていないわけではない。しかし、何故にサントス事件についての記録がほとんどないのか。6500余名の日本人移民・沖縄県人移民が24時間以内退去を命じられたブラジル移民史上かつてない未曾有の大事件が、何故にかくも簡単かつ過少に取り扱われているのか、その理由も根拠も明らかでない。
 太平洋戦争下においてアメリカ政府は、日系アメリカ人を「敵性国民」として砂漠の中の強制収容所に収容する差別的人権弾圧を強行したのであった。これにたいして日系アメリカ人たちは、長年に亘って政府への「謝罪と補償」を要求する運動を展開してきた。

日系アメリカ人補償法に署名するロナルド・レーガン米大統領(See page for author, Public domain, via Wikimedia Commons)

 そして1988年に時の大統領ロナルド・レーガンは、「日系アメリカ人の市民としての基本的自由が憲法で保障されたことに対し、連邦議会は国を代表して謝罪」した。さらに損害賠償と強制収容の誤りについての学校教育のための教育基金を創設したのである。
 まさにこのような歴史的局面において出版された『80年史』において、またそれ以降の全5巻の『ブラジル日本移民史』編集の過程において、ブラジル日系社会の中心組織とその指導者、並びに歴史研究者たちは、サントス事件を日系アメリカ人の強制収容所問題と同様に太平洋戦争の戦時下における日本移民への差別的人権弾圧として捉える問題意識を形成することすらなし得ていないのではないか。
 この故に彼らは、サントス事件を戦時下におけるブラジル日本人移民史を構成する重要な歴史的事件として位置づけて考察していく問題意識を欠落させてしまっていると言わざるを得ないのだ。
 しかも、1947年の時点で岸本昴陽は、その著『南米の戦野に孤立して』において、「日本移民にとっての出エジプト記」としてサントス強制立ち退き事件を取り上げ、「敵国の中の6500同胞の血と涙の進路」の苦難について書いている。その先駆的業績も一顧だにされることなく今日に至っても無視され埋
もれたままとなっている。(注)
 こうして『日本移民80年史』以降の日本移民史研究とその叙述において、サントス事件をめぐる歴史的真実を究明する営為は、放擲されてしまっているのである。
(注)2011年3月に安良田済編著『戦時下の日本移民の受難』が出版され、サントス事件に関する資料文献を掲載、特に同事件についての柳沢秋雄氏の「サントス海岸地方在住民に立ち退き命令」に関する手記(パウリスタ新聞1947年)や、沖縄県人移民島袋仁和の証言(パウリスタ新聞社刊『コロニア50年の歩み』)など当時の関係者の記録を再録してい
る。また2016年5月に発刊されたニッケイ新聞社編纂『日本文化』第2巻においては、岸本昂陽執筆の「日本移民にとっての出エジプト記 サントス強制立ち退き」と「コロニアの母渡辺マルガリーダ夫人」の2つの論文が再録されている。上記二つの著書の出版は、日系社会の日本移民史研究において、サントス強制立ち退き事件が研究の対象にすらならずに歴史の闇に放置されている現状の中にあって、その発掘・探究に一つの力を与えてくれるに違いない。その意味において大きな意義を有している、と言えるであろう。

沖縄県人会における移民史研究の場合

 さて、沖縄県人移民史におけるサントス事件の歴史的探求・究明は、どのようになされてきたであろうか。
 1959年2月に日本移民50周年を記念して発刊された城間善吉編著『在伯沖縄県人・五十年の歩み』の「開拓者の素描」の中にサントスから強制退去を迫られた14名の人々のインタビー記録がある。具志堅常松、伊波興助、嘉手刈松蔵、宮城親真、宮城重内、仲宗根蒲、上原直義、比嘉秀俊、喜屋武正之、山城新盛、塩浜源常、田原秀輝、新屋敷太郎、当間志保らである。
 これらの人々は、24時間以内退去の強権的仕打ちの中で永年苦労して築き上げた財貨の全てを投げ捨ててサンパウロ市やトッパン、北パラナ、ソロカバーナ、カンジド・ロドリゲスなど聖州奥地やパラナ州に生き延びたことが記録されている。
 また新屋敷太郎や当間志保のように生き延びてきた人々を親身となり支援した人々のことも記録
されている。しかし、その記録は、サントス事件を戦時下の日本移民に強いられた歴史的事件として究明していく、まさにその証言として記録されているわけではない。398名の「開拓者の素描」の中に取り上げられているに過ぎない。とは言え、サントスを追放された人々の氏名とその足跡が沖縄県人移民史上に初めて記録されたことは、極めて貴重と言えるであろう。
 1987年12月に発行された屋比久孟清編著『ブラジル沖縄移民誌』は、第5章「太平洋戦争と県人」の中の「戦時中の状況」において、太平洋戦争の勃発と共に国交断絶、邦字紙の発禁、日本語使用の禁止が発令され、違反者は次々と逮捕されたこと、そして42年9月7日のコンデ街からの日本人の退去命令と共に43年7月8日に「サントス在住の日本人に晴天の霹靂の如く24時間を期限に立ち退き命令が出て大騒動になった」ことが記録されている。「家具道具の始末や商人は商品の整理、野菜作り農家は家畜等の始末等で大混乱、特に病人のある家では2、3日の猶予を願ったが聞き入れられず、病勢が悪化して一命を失った家族、お産直後の衝撃で母乳が出なくなった人、サントス駅や汽車の雑踏の大混乱」に直面した県人移民の立場に立って、その苦難の姿を書き綴っている(以上同書254―255頁参照)。
 また、2000年6月に刊行されたブラジル沖縄県人会発行の『ブラジル沖縄県人移民史―笠戸丸から90年』(山城勇編集委員長)においては、第7章「移民の空白期」の第1節「戦時下の移民たち」の「(1)国交断絶―敵性国民としての苦難」の文章構成の中にサントス事件を位置付けて書かれている(執筆者宮城あきら)。
 そこには、『ブラジル沖縄移民誌』と同じように、24時間以内退去を命じられた沖縄県人移民の立場に立ってその苦難の姿が書き綴られている。例えば笠戸丸県人移民仲宗根蒲助・カメ夫妻や石原ウシ、仲宗根蒲らのように艱難辛苦の果てに築き上げてきた家財道具の一切と住み慣れた家を捨てて、サンパウロ市内やアバレー、カンピーナスへと落ち延びたこと、また具志堅常松のように、ブラジル生まれの夫人と幼いわが子を残して、ソロカバーナ線ボツカツーの義兄を頼って落ち延び離散を余儀なくされたことが記録されている。

全体像が明らかにされないまま中途半端に放置

『写真で見る沖縄県人移民の歴史』

 さらに2003年11月に発行された『沖縄県人会サント・アンドレー支部――創立から45年』誌(山城勇編集委員長)において山城勇氏は、第1部第1章の1節「支部発足のいきさつ」で、サント・アンドレー市への入植の草分けの中にサントスを追われ奥地各地を彷徨い安住の地を求めて辿り着いた平田志安、比嘉蒲蔵、城間加那、西徳門善之助、山城達吉、玉那覇常直、具志堅小樽らがいることを聞き取り調査を通して明らかにしている。彼らは、1955年5月10日に創立された支部創立の会員となって活躍した人々であり、平田志安は第5代支部長を務めたことも書き綴られている(以上同書59頁―65頁参照)。
 そして2014年に発行された沖縄県人会の移民100周年記念事業『写真で見る沖縄県人移民の歴史』(宮城あきら編集長)の第Ⅱ部第1章「太平洋戦争の勃発と日本移民の苦難」において、サントス事件を連合国側に参戦したブラジル政府の弾圧下で、日本移民がかつてない苦難に直面させられ塗炭の苦しみを強いられた事件として捉えている(同書139頁参照)。勿論同書は、編集過程において写真収集に努めたが収集できず、政府に接収されたサントス日本人学校を掲載するのみとなっている(同書39頁参照)。

『オキナワ サントス』(松林要樹監督)公開予定:▼7月31日(土)より【沖縄】 桜坂劇場にて先行上映▼8月7日(土)より【東京】シアター・イメージフォーラムほか全国順次公開(https://okinawa-santos.jp/)

 このように沖縄県人会関係の移民史研究史・誌においては、サントス事件を太平洋戦争下において日本人移民・沖縄県人移民に強制された言論・出版・結社・移動など一切の自由を禁止された、戦時下の過酷な弾圧事件として一貫して究明されようとしている。
 とは言え、日本移民・沖縄県人移民への重大かつ深刻な差別的人権弾圧の歴史的事件として、その全体像を究明・探求していく視点から解明されているとは言い難い。それは、連邦政府によって強制接収されたサントス日本人学校の返還運動が、サントス日本人会並びに沖縄県人会サントス支部を中心に長年に亘って闘い続けられてきたにもかかわらず、これと連帯して県人会本部としての取り組みを展開していくことをほとんどなし得ていないことに如実に示されている。
 この故に沖縄県人会関係の移民史研究においてもサントス事件は、その全体像を明らかにされないまま中途半端に放置されてきたと言わなければならない。このことについて沖縄県人会並びに私自身を含めた県人移民史研究者たちもまた、深い反省を迫られている。(つづく)

★2021年7月29日《ブラジル》特別寄稿=太平洋戦争下の日本・沖縄県人移民の苦難―――サントス事件を中心に=バルガス独裁政権と枢軸国移民迫害=ブラジル沖縄県人移民研究塾代表  宮城あきら《1》

★2021年7月31日《ブラジル》特別寄稿=太平洋戦争下の日本・沖縄県人移民の苦難―――サントス事件を中心に=産気づく人、寝込む人、流産する人まで=ブラジル沖縄県人移民研究塾代表  宮城あきら《2》

★2021年7月27日《記者コラム》ブラジル近代史に残る日本移民迫害事件を初めて描いた映画『オキナワ サントス』

★2019年12月12日《ブラジル》サントス強制退去の証言=その日何が起こったのか=(1)=銃を持った警官が退去命令

★2016年12月8日《ブラジル》サントス日本人学校全面返還=戦時下で接収、73年経て=終わる「コロニアの戦後」