(2)菌類や栽培技術の有識者や試験栽培者を組織的に率先する指導者が不在だった。
(3)試行錯誤で習得した栽培技術は他言せず黙秘し、相互授受の技術的な交流が無かった。
(4)近郊農業の既存の換金作物に対し、新たに投資し栽培意欲を喚起する魅力に乏しかった。
(5)種菌はヨーロッパの各国の異なる培養者による大麦を4cm角に固めたのや、三角形の菌糸を充満させた種菌などで、発生したキノコの形状も色調もバラバラで商品価値を損なった。
*)1950年;古本はマッシュルーム栽培を約10年間試行錯誤の末、サンパウロ州のパトリアルカで人工栽培に成功した。しかし市場でのキノコに対する関心は低調で、日産量は数kgに過ぎなかったが売捌くのに苦労した。已む無く日本料亭を訪れ無理に買ってもらい、生真面目な古本には料亭に出入りしての商売は、屈辱感と自尊心を傷つけた。(談)
*)同年頃;古本はサンパウロ州立生物研究所の植物病理部門主任のDr.Julio F.Amaralとの面識を得、キノコ栽培上で直面する諸問題の解決にはDr.Julioを唯一の師として仰いだ。後日、古本がブラジル有数のキノコ類の識者になれたのもDr.Julioに負うところ大だった。
*)1952年;古本は植物分類学者、橋本梧郎が主宰するサンパウロ博物研究会の展示会にマッシュルームを出品し、当時としては奇抜な農作物として、最優秀賞のMençao Honrosaを受賞した。これより古本はキノコ類の研鑽に生涯をかける決意を新たに発奮する動機となった。
*)同年頃;古本は旧アデマール振興会社商事部の好意により、厩肥を培地とした団子型の種菌を販売し国産種菌の第一号とした。植菌すれば多少なりとも発茸したので好評を得た。
揺籃期(1953〜62年)
試験栽培より商業的栽培に移行。
*)1953年;古本は自己のマッシュルーム栽培体験を当時の月刊農業誌、CHACARAS E QUINTALES(農園と庭園)に寄稿した。これを機に邦字紙でも古本の手記によるマッシュルーム栽培法についての記事が頻繁に掲載されるようになった。
*)当時の日本は種菌の禁輸令下にあり輸入が絶えたので、古本は日本人でありながら日本産の種菌の原種が入手できず物心両面に挫折感を味わった。(談)
*)1957年;古本は農牧省からの要請で、キノコの栽培法、包装仕様、レッテルの図案等を提出する事になった。商品名のキノコと云うポルトガル語の名称が問題になった。ブラジル語では従来のキノコ類は全て“Cogumelo”で、顧客の多くはマッシュルームの姿形は知っていても本名は知らなかった。
古本はフランス製マッシュルーム缶詰の“CHAMPIGNION”シャンピニオンのレッテルを引用し、中央に大書しその下に(COGUMELO)と小さく囲った。多くのブラジル人には「マッシュルーム」と発音するより、ラテン語系の独特な「シャンピニオン」と語尾を鼻音で締めくくった方が、気分的に爽快感が味わえるのか顧客の反応は好評だった。