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キノコ雑考=ブラジルに於けるキノコ栽培の史実とその背景=元JAIDO及びJICA 農水産専門家 野澤 弘司 (11)

鶏舎を改造した初期のマッシュルーム栽培菌舎。壁に泥を塗りたくって断熱

鶏舎を改造した初期のマッシュルーム栽培菌舎。壁に泥を塗りたくって断熱

*)1958年;マッシュルームの需要は、巷での様々な情報機関やキノコ本来の高級嗜好の食材としての評価が漸次浸透し、栽培者も増えてきたので、古本はドイツ系ブラジ人のLorfとマッシュルームの缶詰工場”YALE”を設立した。

 しかし加工原料としてのキノコの集荷状況は缶詰の設備能力を満たすには程遠く、稼働率は設備能力の30%にも及ばな無かった(談)
*)1960年;古本はフランスやイタリーで普及している洞窟でのキノコ栽培に着目し、サンロッケ近郊でソロカバ鉄道の廃線に残存する全長140mのトンネル跡で、従来の半地下式の菌舎から移動して、廃坑トンネルでの棚式と露地式栽培を試みた。
 しかし坑内の換気不足と天井からの地下水の滴下で菌床は常に過湿状態になリ、雑菌の繁殖が旺盛となる問題が浮上し、その解決には多大な設備投資を伴うのでトンネル栽培は敢え無く挫折する結果となった。
*)1961年;野澤は水産志向の移民だったが奇縁が重なり、移民船が出航までの6か月間で習得したマッシュルーム栽培のノウハウと種菌約0・5Lを携えサンパウロ近郊のモジに移住した。 
 同地で日本の伝統食材を生産し、キノコ栽培の試行錯誤を繰り返していた篤農家、瓜生知介(旧制鳥取高等農林専学校卒、1933年ブラジル移住)とキノコ栽培の共同研究に挑んだ。
*)1962年;瓜生と野澤は古本から遅れる事10年にして、日本産の種菌を拡大培養し、ブラジル産マッシュルーム二世の試験栽培に成功して後、一挙に商業的人工栽培に移行した。
*)商業的栽培に移行後の野澤の平均的な日課;4月〜10月の秋から春先までの低温季がキノコの栽培期間で、キノコは成長が早く毎日収穫し、日曜休日もなく翌朝4時50分モジ発のセントラル線の一番電車でサンパウロのカンタレーラ中央市場に7時に着き、10〜15kgのキノコを担いで売り捌くのがノルマで、9時頃には完売し昼までには農場に帰った。
 午後は近隣の初心者に栽培指導と翌日の出荷準備が日課だった。何故か暦の満月の前後はキノコの発生も収量も多くキノコの担ぎ屋として農夫を同行した。電車の窓ガラスは破れてまばらで風雨は容赦なく吹き込むが、サンパウロまでの距離60kmの切符が3ミル(5円)と、恐らく世界一安かったが脱線や衝突事故も頻発し、前後いずれからも安全を期して常々5両編成の真ん中の電車に乗った。
 サンパウロの電車の終着駅から市場までは一丁場だが、4kg詰め葡萄の出荷箱を2箱ずつ入れたバッグを両手に、バスの高いステップの乗り降りは辛かった。早朝から市場で商売する常連はキタンデーロ(八百屋)やフエランテ(朝市の露天商)等と仲買人で、彼等とは直ぐに顔馴染みとなり、ジャポンノーボ(日本からの新来移民)と声をかけられながら売捌き、翌日の注文をもらった。